みくりやさん

かさいさんとなった。今日からかさいさんと書く。
今回の発表会では、珍しいプレヴェールの詩にコスマが曲をつけたシャンソンを
日本語フランス語取り混ぜて歌ってもらうことになった。
「寓話」「シャンソン」の2曲。
珍しい、といってもあの有名な「枯葉」はこのコンビによる作品だ。
これら2曲の楽譜と日本語訳は、私が世話になった師匠からいただいたものだ。
私も若い頃良く勉強させてもらった。

結局声のことにつながるけども、一つのアタックとして声のこととして考えずに
歌う気持ちを大切にすることが、まず必要だろう。
特にシャンソンは声そのものや、抽象的な音楽そのものの美しさよりも
歌手が歌われる歌詞をどう扱っているか?が一番の焦点になるから。

最初の「寓話」は、猫に半分食べられて傷ついた小鳥が死んで葬式を挙げる。
村人も娘も悲しんでいる。
すると、どら猫が現れてきて、娘さんがそんなに悲しむのなら、あの小鳥を丸ごと食べてから、世界の果てまで飛んでいってしまったよ、と嘘をつけばよかったと告白する。
そして最後に、中途半端は止めましょう~!と言って終わる。

少し教訓めいているが、それがしゃれ気を持っているので、「寓話」になり、またシャンソンとしてうってつけになる。

当然、語ることが即座にお客様の脳みそまで届かなければならない。
結果として悪い声だとしても、歌詞がしっかりお客さんの脳みその中に
届いて理解されることが、必須である。

これは単に言葉が分かるようにアーティキュレーションする、子音を立てるというようなことではなく、自分がその言葉を良く理解しているかどうか?
これがまず第一に大切。言葉、歌詞の読み込みがどれだけたくさんあるか?

歌と言うのは旋律があるから、ついつい旋律を歌ってそれで良しとしてしまう。
気が付いてみると、実は日本語の歌詞でも言葉はどこかに置き去りにされてメロディだけが口先に乗っている、という具合になり勝ちである。

歌詞を大きな声でしっかり朗読する練習を充分にしてほしい。
そのうち、歌詞の中の言葉の形、動詞、形容詞、名詞が考えなくても分かるようになる。
そうなったら、歌いながらそれらの大切な言葉を自然に感情を込めて歌えるようになるだろう。

「寓話」は、お客さんに良く説明できること、「シャンソン」は自分がどれだけハッピーな状態になれるか?だろう。
「シャンソン」の中で「今日は毎日、ね~君?」と問いかけていても、気持ちは自分が幸せなのだ。
毎日が幸せって、どんな毎日だろう?かさいさんにとって一番幸せな状態、未来でも良いし、過去でも良い、一番幸せで一人で隠しておきたいけど、隠せないくらいハッピーだったことを思い出して欲しい、イメージして欲しい。
そうすればお客さんもハッピーになれると思う。

のうじょうさん

今日はドビュッシーの歌曲2曲「噴水」と「夕べ」だけを徹底して練習となった。
というのも、後ちょっとしたことで、とても良くなるのだけど
それが途方もなく大変なことだ、と思ったから。
それは彼女の声が大分洗練されてきたのもあるし、ピアノ伴奏の難しさもある。

ドビュッシーの歌曲の出来不出来は、声楽的な難易度そのものよりも、言葉の理解と語感が声とどうつながるか?そして、それらの語感を修飾できるピアニストのセンスで決まるからである。
声の色に変化が付けられた、付け方が分かった、としてもなぜそれが必要なのか?
それは歌詞の語感がないと、本当の色付けの基準がなかなか出来ないものである。

とはいっても今の段階で言葉の理解度と語感を求めるのは無理である。
彼女にとってそれほど広くないこれらの曲の音域の中で、どれだけ
声のダイナミックの変化が付けられるか?
フランス語として気持ちの良い発音が聞けるか?
そして後はフレーズの大まかな意味が、どれだけ歌いながらイメージ出来ているか?
古典的な声楽作品には少ない音程感覚、完全音程、減、増音程などなどが正確に
出せるか?

両曲とも、フランス語のDeの発音が気になる、デに聞こえてしまう点は
充分に気をつけて欲しい。
「噴水」の場合、繰り返し出てくる、’La gerbe d’eau qui,,,’のフレーズのイメージと
‘Tombe comme une averse de..’の入りの音程感。
イメージは歌詞を読んで読んで読み込んで欲しい。
全体的な意味の中のこの部分は、何を訴えて言っているのか?
「快楽」という言葉、気持ちよさ、これ以上ない快感というのは
どういう経験にありますか?そういう「気持ち良さ」と良く自分の引き出しの中を
探して、目の前に、耳の中に、皮膚の上に、良く良く思い出してほしい。

「夕べ」は大分良い。なぜか歌のイメージが彼女にぴったりである。
地方出身者の若々しい娘さんが、詰まらない日曜日の思いの中から
聖母マリア様の慈悲に感慨を覚えるポエム、といった風情。
とても合っている。

願わくば、正確な3連符を!
そして発音、特にEmuet.

これらの2曲でピアノの役割は、声楽と同等かそれ以上に大切だ。
ピアノ伴奏部は歌われる言葉の修飾的な役割と、言葉を補填する
役割を担っている。

彼女もとても良く弾いているのだけど、もう一歩積極性がほしい。
歌うことである。

正確なビートは基本だけども、流れは大切にしなければならない。
音楽が進むべき所、よどむ所、の区別。
歌の伴奏部には、しばしば連符によるアルペジョが多用されているが
こういうところは、良い意味でいい加減なくらいに、大きくまとまりで
流れて弾いてほしい。丁寧すぎると、音楽がよどんでしまうのだ。
歌の旋律の進行をぐいぐい引っ張るくらいである。
あるいは3連符。こちらは流れないで正確に3を出さないと、流れてしまうとかっちりしなくなる。

一方で饒舌にならなければならない所もある。
それは右手に旋律、あるいは対位旋律が顕れる時である。
音楽の言葉にも匹敵するから、ダイナミックの問題だけで捉えないで
もっともっと饒舌に。

後しばしば気になったのが、縦に大きく積み重なった和音の
アルペジョ奏法。
歌の入りの前から弾くのではなくて、歌の入りから始めて欲しい。

これらの伴奏あわせは本当はとてもとても積み重ねがほしいところ。
後2回で、どれだけのことが出来るか?楽しみである。