ドビュッシーの歌曲、Dans le jardinは、ポール・グラヴォレというあまり有名ではない詩人の詩に作曲されている。
が、ドビュッシーの好みは、実は初期からそうだが、中世的な古い世界を想起させるものがお好みのようであったと思われる。
シチュエーションとしては、恋をする男の心情吐露なのだが、庭の垣根を掻き分けて、覗き見をする男が、それと知らず遊ぶいたいけない少女に一目ぼれをするわけである。
垣根を掻き分けたせいで、つるバラに指が血まみれになったりするのだけど、そんな言葉を歌う、というより語るドビュッシーの音の天才は、言葉の中に潜む感情を、歌わないで言葉のニュアンスで見事に伝える、という点にある。
鋭く2度が突き刺さる和音とドビュッシーのお得意な3連符の組み合わせで始まる前奏は
それを聴くだけで、聴くものを中世のお城の世界に呼び戻してくれるようである。
節の終わりに出てくるJe t’aimaisの伴奏は、ペンタトニク(5音音階)の上昇するアルペジョである。
ここが、素晴らしい!
ペンタトニックを当てはめているのに、東洋趣味ではなく、中世の幻影とロマンを感じさせてくれるからである。
ドビュッシーの凄い所はこんな小品にこそ現れている、という典型である。
そして、この歌でありながら限りなく伴奏付きの朗読に近い音楽は、フランス語の新しい歌の音楽のスタイルを模索して、ペレアスという傑作を作る準備段階の賜物だったのだろう。
しかしながら、ペレアスは膨大過ぎて、近づき難いものになってしまったと思う。
勿体無いことだ、とは思うが、偉大な芸術とはそういうものである。
太陽はまぶしすぎて実態が分からないのに似ている、とは思わないか?
とは書いたものの、フォーレに言わせればドビュッシーは掟破りで音楽を改変させてしまった、ずるい奴かもしれない。(笑)
フォーレの本当に凄いところは、ドビュッシーのラディカルさとは正反対の場所に身をおいて
フランスという特徴をこれ以上ないくらい音楽として具現化したことにあるだろう。
ドビュッシーがレンズも被写体も選ばないカメラなら、フォーレはまさに被写体とレンズをはっきり選ぶカメラ、なのである。
Debussy Dans le jardin
- 更新日:
- 公開日: