色々なこと、それは多分思い出が多いのだが、名状しがたい気分になることが良くある。
このバッハのクラビーア作品を聴いていると、そんな言葉にし難い気分そのものを表現している、と思うことがある。
音楽なのだから当たり前だ!という声も聞こえそうだが、そうではない。
音楽にも具象的な表現と抽象的な表現の違いが明快にある。
オペラのアリアくらい具体的なものはない。
悲しい!楽しい!怖い!面白い!恋しい!泣きたい!殺したい!!Etc…実に人間的である。
一方バッハの器楽作品は、実に抽象的である。
言い方を変えれば、まったく商売の役に立たない具体性に欠ける音楽が多い。
だが、そこが良いところなのだ。
http://youtu.be/VdfZRNyshEA
昼日中からカフェでビールを飲みながら哲学論議をしているような感じ。
男くさいのだ。
だが、男くささの中には、実は女性以上に繊細な感情というものがある。
バッハの器楽作品には、そのような繊細さが満ち溢れている。
それらを味わう喜びは、汲めども尽きないのである。
ところでこの前奏曲のコーダはメジャーに転調して終わる、良くあるパターンだが、まったく陳腐さを感じさせない。
あたかも、思索をポジティヴな結論にしておいて、思索を半終止させた後で、にやりと笑うかのよう。実に粋ではないですか?
そして、前奏曲でセンチメンタルな気分を漠然と言い放って
一呼吸おいてから、このフーガによって、彼は己の思索の完成をみるのである。
この変わり具合。
右脳から左脳に切り替える、この音楽的スタイルにバッハの他の追随を許さない素晴らしさを、感じるのだ。
この言葉さばきの淀みの無さはどうだろう!
人間でいえば、語り口に淀みと論理の破たんのない、素晴らしく切れ味の良い男を見るような爽快感がある。
それでいて、決して早口ではなく、またちょっとばかり頭の良いつもりの若者に見られる生意気さは微塵もない。
ところで、本当に頭が良いのと、頭が良いつもりな人間とでは、両者に大きな違いがある。
前者の特徴は寡黙であり、後者の特徴は雄弁だ。言い方を変えれば、言い訳が上手い。
昔から「巧言令色鮮し仁」と言われてきているのは、理由があるのだ。
ところでフーガのコーダ部は転調しないでそのまま終わる。
他人に同意を求めていないし、言いたいことを言いたいだけ言い放った後の爽快感のようなものを感じる。
バッハ プレリュードとフーガBWV 883
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