MT
伴奏合わせだった。
フォーレの「我らの愛」から。
全体に細かい音符で素早く語るイメージが官能的な曲だが、素早い語りでもレガートな声の響きがほしい難曲。
音符の扱いが、ごつごつとまでは行かないが生硬い印象が残った。
Notre amourのRからAにつなぐリエゾンがRを言うあまりに、シラブルが一個余計に入っているような印象。
あるいは Notre amour est chose legereというフレーズの中で、大事な母音だけが良く出ていれ
ばよくて、細かく言う必要がないところとの差異が意識されておらず、良く言えばどの音符も正確に歌おうとし過ぎていないか?
ここでは、Chose legereの、母音でいえばChoseのOとLegereの2番目のEとなる。
このことは、詩を朗読するときに自然に意識される箇所だし、であればこそ、フォーレがそのようなメロディの書き方をしているともいえるだろう。
このような部分をくみ取って歌にすると、歌が平板ではない立体的な歌になるし、素早いテンポ感も楽々と歌えないだろうか。
フランス語は、イタリア語やドイツ語と比べるとアクセントがない言語と思われているが、実際は強調して語られたりもするし、もちろん長母音もある。
また詩の朗読では意識してアクセント的な要素を入れて読まれるのがふつうである。
シラブルが多く平板なメロディの場合は、発声的には下あごを、発音や発語になるべく関与させないことがレガートに歌うコツである。
このことで、軟口蓋が開発されていて、舌を良く動かせれば充分可能なのである。
フォーレの「イスパーンのバラ」に比べた場合は、急いで押し殺したように素早く語るところに、この曲の魅力があるので、テンポをあまり遅くしないほうが良いのではないか?
プーランクの「このやさしい小さな顔」これはゆっくりした曲だが、これも前半は頭声の混ざった声が好ましいが、それ以上に発語で音符が見えてしまう歌にならないように。
滑らかにフレーズを歌えると美しい。
この滑らかな発音と、線を出す歌い方を課題とすると良い。
前半は頭声を多めに発声し、A la sortie de l’hiverから、Mfになる場合、声に色を付けるために胸声を混ぜていく、という具合。
声色を単純に2色にして使い分けると、モノトーン画面からカラー画面に代わってリアルな印象が出て良い。
フォーレの「イスパーンのバラ」
最初の通しの音楽が単調だったので、その理由を考えてもらった。
結果的に、テンポをかなり遅めたことが成功だったと思う。
開母音と狭母音の差が明快になると、さらに良い。
フォーレの「バラ」は、これも彼のイメージを尊重してゆったり目に歌ってもらって成功だったと思う。
TNA
伴奏合わせだった。
グノーのAve Mariaは、ブレスが妙なところに入ってしまっている癖を指摘したが、これは癖になってい
るので難しい。
基本的には単語の途中で入れないことを原則としてほしい。
結果的に、アリアは実に立派な出来にまで仕上がった。
当初は失礼ながら、ここまで出来上がるとは予想していなかった。
少ないレッスンで良く頑張ってくれたと思う。
しかし、当初からその音楽的な集中力には瞠目していたので、今になれば当然という気もする。
テンポとブレスの間合いの関係というのは、初心者の内はなかなか難しいもので、ピアノの音楽に左右
されてしまうもの。
しかし、これでは自分のブレスが出来ない、ということ。
この曲の前奏は、歌とは関係がないので、前奏を聴き終わってからゆったりブレスを取って、自由に歌
いだせばよい。
あとは、ピアニストが合わせてくれる。
高音発声も、現状では十分すぎるくらいの出来だった。
当初は、高音発声は出来ていたが、ほとんどファルセット的で音程が上ずり気味だったが、最後の最後
に、音程がはまったのが収穫だった。
高音発声は、音程感が分からなくなるので、やはり指導者の耳に頼ったほうが良いという見本みたいな
ものだった。
TSS
プログラムの3曲の仕上がりは上々で、現状の彼女としては、ほとんど文句の付けどころがない状態だった。
それで、今後の課題、ということでいくつか指摘したのは、トスティの「セレナータ」だった。
良く歌えているが、狭母音が全部開いてしまっていること。
結果的にたとえば開母音でも、開き過ぎ、ということも感じた。
声が響いている感覚の中で、その響きの場所によっては、口を開けないと上手く息が通らないために、口を開けて発声することになる。
ここから分かることは、もし、口先を閉じて発声した場合、どこに息が抜けるだろうか?と考えればわかりやすい。
単純には、鼻しか抜けるところはないのである。
しかし、鼻でも抜ける通り道があるわけだから、口先を閉じても問題ないことがわかるだろう。
また、イタリア語のUという母音は、もともとがそういう響きの母音なのである。
皆さん勘違いではないか?と思うのが、どの音符も一様に同じ声量を出すように歌うことがレガートと思っている節。
これは、間違い。
声の響の声量の質は、フレーズの中に山あり谷ありで当然であり、必要なことは声量が出るべき母音できちっと出ていれば良いこと。
何となく無意識で、声の響きのポイントをつかむと、どの母音も(音符も)一様に声を出してしまうため、結果的に母音の特徴のない歌声になってしまう。
たとえばPura la lunaと歌う場合、Puで十分に口先が閉じているからこそ、Raの母音Aが開放的に聴こえるわけである。
このような響の明暗がはっきり出てくるから、言葉が美しいし歌声も美しいのである。