オペラの歌声は、一言で言えば芝居の中の役柄そのものです。
ソプラノは可愛そうなお姫様であり貧しい町娘であり、あるいは神話時代のたくましいアマゾネスでもあったりします。
男なら、悪徳代官様であり或いは甲斐性のない息子を諫める金持ちのお父さんであったり、どうしようもない好色な殿様もありの悲劇のヒーローありの、、といった具合。
声が役柄を具体的に表現しているということが重要な要素です。
もちろん欧州の作家が作った作品が主ですから、当然ながら白色人種の声が持つキャラクターであることも大きな要素でしょう。
いくら声があっても、声だけ聴けば日本人がやってる中国人がやってるという印象を持たれては作品の良さが成立しません。
そしてオペラの魅力は、やはり大オーケストラを飛び越えて聞こえてくる流れるような歌声と、大きな舞台装置による、劇場の持つ魅力そのものと言えるでしょう。
その意味では、まず第一条件は良く通る声量のある声であること。
その上で役柄や人種的な特徴を持つ声のキャラクターがあること。
そして最後に表現力の幅が十分にあることとなります。
一方、歌曲はどうでしょうか?
歌曲は、そのほとんどが詩人が作った詩に後から作曲家が音楽を付けています。
詩は抽象的な内容が多いですし、そうでないとしても文学的な要素の濃い歌詞であり、結果的に詩に相応しい音楽表現になります。
一般に詩の朗読というものがありますが、この詩の朗読を歌でやっているのが歌曲である、と言う言い方をしても過言ではないと思います。
そこでは詩の内容の主人公そのものであるよりも、語り手である話者の持つキャラクターが素直に出る方がより純粋な表現になります。
その面では、前述のオペラと違って日本人が歌っていると思われても、音楽性が捻じ曲げられることは少ないと考えています。
そして演奏面で決定的な違いは、そのほとんどがピアノ伴奏であること。
必然的にそれほど大きなホールで歌われなくても良いこと。
結果的に、歌声はオペラのような声のテクニックがなくても成立し得ることにあります。
この3番目の声のテクニックがなくても成立し得る、と言う面がどこかオペラより下に見られている原因になってないでしょうか?
しかし考えてもみてください。金持ちの庭に大事に育ったバラの花も美しいが、野に咲く可憐なスミレも美しいではないですか?
私はこのようなチープな美しさに感動いたします。
歌曲であれば狭い小さな会場で歌うことも多いですし、テクニックをカバーする人間性やオーラというものがものを言います。
いくらテクニックがあっても「嫌な奴」の歌声は聴いていて疲れるし飽きる。
音大卒の多くの声楽家がオペラを目指すことは頼もしいと思う反面、一体それがどれほど世のため人のためになるのか?と言う面で疑義を感じざるを得ません。
なぜならオペラは多大なお金がかかりますし、そのために多大な時間をかけて、高いチケット代で成立させる商業演劇である、という意味においてです。
音楽という表現が人々に喜びを与える意味は、そういう商業だけでしか成り立たないのではなくて、もっと小さなコミュニティや狭い地域での小さな演奏会でも成立することです。
これからの時代は、ドンキホーテみたいに無暗やたらとオペラに猛進する人生を歩んで燃え尽きるような声楽家ではない方々がもっと増えて、幅広い素晴らしい声楽作品の紹介に勤しんでくれることをねがっております。