良い歌声は、良い発声と共に育ちます。
良い発声を得られれば、どのような人でも気持ちよく楽しい歌を楽しむことが出来ます。
そして、その結果、その人の人生は素晴らしいものになるでしょう。
お金が儲からなくても他人から賞賛されなくても、ちっとも構わない。
良い歌声を持つ喜びは、他の何物にも勝るのです。
それを人は、自己満足・・ときっと言うでしょう。
でもお金が儲かっても、名誉が得られて喜んだとしても、それも自己満足の一種ではないのでしょうか?
さて、本題です。
喉仏は、確かに下げるということが正しく行われれば、声量や伸びのある高音発声につながるし良い響きにもつながるでしょう。
しかし、その行為を意識するあまり、声帯が閉じすぎていたり、気道が舌で塞がっていたらどうでしょう?
息が流れなくなり(吐きづらくなり)息を吐けない歌声になり、結果的に息が持たないのではないでしょうか?
声帯を分厚く使いすぎたらどうでしょう?高音が出せなくなるでしょう。
喉を下げるとことは、端的に低音発声に必要な要素が介在するため、そのことによって高音発声に応用するためには、
しっかりした練習の積み重ねと、指導者による決め細かいレッスンが必要になります。
まして、これらの言葉によって意識された誤った発声を治すのは大変なことです。
私が良く言うのは、喉を下げる癖のために上手く行かない人には、喉を上げなさいといいます。
あるいは、浅くて子どもっぽい声を出しなさい、と指示します。
このことを上手く対処できるようになることで、喉を下げる意味が判るようになるからです。
つまり喉仏のバランスは、引き上げと引き下げの拮抗にある、ということです。
下げるだけ意識すると、バランスが偏ってしまう場合が往往にしてあるのです。
さて、発声が上手く行かない人は、後戻りするのが嫌かもしれませんが、後戻りせずに良くなることはありません。
人間の行為と言うのは、思い込みで進みますから、その思い込みから直さないと、本当の矯正は不可能なのです。
「急がば回れ」という言葉があります。
山歩きでも、道に迷ったら元の道に引き返し、最初の分岐点からもう一度やり直すでしょう。
根気よくやり直すことで、新しい未来が開けます。
真の歌声を得ることは、単にプロになるのかアマのままでいるのか?とかいうようなさもしい二元論に留まらない、人間性の大いなる回復を得られる人生を過ごすための、重要な意義があるのです。