芝居のセリフの表現と歌唱における表現との発声上の類似性について

芝居のセリフの語り口は、しっかりした発声で、はきはきとお客さんが判るように語ることは大事ですが、なんでもかんでもしっかりした良く響く声である必要はないと思います。

先日も、東京室内歌劇場主催の魔笛を見に行きましたが、皆さんお上手でしたが、セリフは時として声が響き過ぎることが気になることがありました。

昔からよく言われる新劇発声というのか?不要に大袈裟に感じるあれですね。

聴こえるか?聞こえないか?という問題は、単に音圧レベルの話しではなくて、聴衆の集中力、そのためのシチュエーションに大きな理由があるわけです。

聴衆が一体になってシーンとしていれば、かなりなささやき声でも聞き取れるのです。

そうやって声を考えれば、芝居のセリフももっと抑揚が付いたほうが表現力が増すでしょう。

若手の落語家と名人の落語家の違いは、この語り口の声量の違いが大きいのは、これが理由です。

そしてこのことをもっと掘り下げれば「表現」ということに行き着きます。

聴衆に聞こえる、という発声上のテクニカルを擁した上で、なおかつ語り口の表現を強めるためには、声を抜いている部分が必要である、ということ。

この抜き加減が良い人、あるいは抜いている部分が明快にわかる人は、表現力のある語りである、と言えるわけです。

翻って音楽演奏はどうでしょうか?

これも、語りとまったく同じことが言えると思います。

朗読や語りの場合、本や台本にはこの表現についての指示は全く書き記されていません。

しかし音楽の場合は、ありがたいことに楽譜にかなり細かく表現につながる作曲家の指示が表記されているわけです。

特にロマン派以降近代の作曲家は、かなり事細かく楽譜に表現に関連する指示をするようになりました。

古典派以前は、演奏家に一切をゆだねる姿勢があったため、モーツアルト以前の作曲家はほとんど楽譜に表現指示は書いていません。

演奏する者は、職業音楽家なのだから音楽が判れば表現方法は知っているはず、という信頼関係があったのでしょう。

また、音楽のスタイル自体も現代に比べシンプルだったから、表現方法も事細かく指示しなくても分かってもらえたのだと思います。

このように考えると、古典派以前の音楽のありかた、というものが良く理解できると思います。

音楽そのものの可能性の枠の広さを追うのではなく、定型という枠組みの中でどのような感情表現が出来るか?という違いだということに気づかされます。

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