牧神の午後への前奏曲から、音楽の理解とテンポの問題について考える
ドビュッシーの作品中でも指折りの傑作でしょう、牧神の午後への前奏曲は。
つい最近、このチェリビダッケ指揮の演奏を初めて聞きましたが、驚かされました。
初めてこの曲が表現している世界が判った気がしました。
中学生の頃初めて聴いて以来、この曲にはどことは言えず魅了されてはいましたが、実は本当の美学が判っていなかった気がしています。
ということで、他の演奏もいろいろ聞きましたが、平たく言えば表面を見せているだけで、その中身を見せていないのです。
チェリビダッケのテンポの意味は単にゆっくりしているのではなく、彼が心底から理解した音楽を表現するためには仕方がないテンポなのでしょう。
当たり前のようですが、たとえば風にそよぐ木の葉をスローモーションで見るためにはビデオという機械のおかげでわかるわけですが、人の目の持つシャッターでは捉えきれないわけです。
音楽もそうで、ドビュッシーのこの曲が表しているサウンドを、聴衆に完全に理解させるための、彼の驚くべき音楽づくりの努力と耳の賜物なのです。
更に噛み砕いた言い方を許してもらうならば、恐らくここまで音楽を理解しないで演奏しているケースがかなり多いのではないでしょうか?