自分の場合は、ピアノを弾きながら譜読みをするのが習慣だ。
恐ろしく難しい曲でない限りは、音源を頼らず譜面から音楽を起したい。

合唱指揮を長年仕事でやってきたことはその点で役に立ったし、音大時代にも下手は下手なりに彼女の練習伴奏をしてあげたことが役立った。
ピアノ伴奏を弾くことによって、作品の粗筋が良くわかるからである。

歌う練習も独りの場合は弾き語りが多い。
どうしても弾けない曲を除いて、なるべく自分で弾きながら歌いたい。
総合的な音楽体験が出来るからだ。

ただ弾き語りに慣れると、ピアノ伴奏者と合わせたときに息の取り方やフレーズを歌う流れに独特の違和感が生まれてしまうことがある。
また座りながらピアノを両手で操るわけなので、厳密にいえば発声のエネルギーが殺がれる。
しかし、逆も真なりで余計なエネルギーを殺がれるからこそ、無駄のない力まない発声に結び付く面も多い。
一長一短。

この経験から思うのは、伴奏者も譜読み時に弾き語りを経験してほしい。
歌いながらピアノを弾くことで、息で成立する歌声の旋律とピアノ伴奏との関係が少しは実感できるはず。
大事なことは、伴奏者も歌が好きで作品に共感する心を持っていることではないか。

音楽の外枠だけなら、音源を聞いて耳で覚えてパパっとやる方が早い。
しかし、音源を聞かないで音符から音楽を作っていくのは、その途上で自分の頭で考える過程が多くなるから。
考える過程で初めてイメージが沸いてきたり、譜読みが終わり些細な瞬間に確かなイメージが啓示のように降臨することもある。

凡庸な才能の自分にとっては、面倒な作業を経て譜読みをした作品ほど己の血肉となって財産となっている。
でも血肉は他人からはほとんど見えない。
他人から褒められるようなことはないのだが、己の満足感は大きな違いが生じる。

素晴らしい作品を知る驚き、それに接する喜びであろう。

良く考えれば、クラシックの名曲が簡単に自分の血肉になるようになるだろうか?と疑問に思うことがある。
我々は、あまりに多過ぎる作品に接して多くの作品を演奏しようとしてないか?
本当はそれほど理解できていないのに、演奏にあげてしまっていないか?
このことについては、もう少し熟慮すべきではないかと思う。

さて、今のレッスンの仕事もピアノがまるで弾けなかったらここまで続けて来られなかった。
レッスンという仕事をしてきたおかげで、どんな曲を持ってきても1~2回通せば大体の音楽のスタイルが解るようになった。
また、そのことが面白い。

自分がやったことがある曲だけを教えているのでは、自分にとっても音楽の視野が拡がらないだろう。
クラシック音楽をアマチュアに指導するのであれば、一子相伝の秘儀みたいに師匠の十八番だけを口伝でというのはちょっと古すぎると思う。
仕事にならない。

また仕事にするからプロ意識が育って、自分を高めることもできると思う。
対価をいただくからこそ責任を感じて必死になる。
芸術だからビジネスと関係ない、と言えるほど自分は純粋で情熱的な人間ではないから。

対価をいただくことで、プロ意識は育つはずだ。
怠惰な人間には、いただいた対価に対して応えようとするだろう。
プロ意識は絵に描いた餅ではないのだ。