古典派以降からロマン派後期までの音楽というのは、頭の中で悩んだり喜んだり悲しんだり涙したり、という人間感情の有様を直接的に表現している傾向があります。
そのモチーフのテーマは恋愛だったり、人の死であったり、戦いであったりするわけです。
メロディがそのように性格づけられるのです。
メロディの性格が言語的で論理的であることが特徴。
例えば・・最初は穏やかに話し出すのだが、あることを契機に突然疾風怒濤のごとく感情の強い波が襲ってくる!!が、その感情もあることを契機に収まり元の鞘に戻る・・という具合。
これは解りやすい。
ドビュッシーでは、外界に存在する空気や風のそよぎ匂いや雰囲気、というものに触れている人間の心象風景を表現する傾向が強いと思います。
外界の風景が投影された心象風景です。
外界の様々な現象を見て想起される人間の感情表現です。
その人は、もちろん悩んだり喜んだり悲しんだりしてはいるが、それらの感情は外界というフィルターがかかっている。
ロマン派の音楽は人間の思惟そのものなので人の心をつかみやすいが、ドビュッシーの音楽は、その点で間接的なために理解されづらい面があるのではないか?
ドビュッシーが理想のオペラ像として語った「ものごとを半分まで言って、あとは相手の想像に任せる」という言葉が、まさにドビュッシーの音楽哲学を象徴していると思うのです。
このために、音楽的背景としての自然界の描写やその表現力は、ロマン派以上に大きな比重を占めているわけです。
西洋絵画の世界も同じような表現技法の違いが時代に即して出たのではないでしょうか?
ドラクロワまでのリアリズムの手法が、印象主義になってより自然の光の描き方に踏み出し、その後シュールレアリズムが出て人間の内なる感情がそのまま対象に投影される、というわけです。
さて、ドビュッシーの円熟期への橋渡し的存在として輝く「牧神の午後への前奏曲」というオーケストラ作品は、この点で彼の作曲技法が花開いた典型です。
牧神の吹くパンの笛のメロディが聞こえてきた後に、温かく花の香りがするような南風が頬を撫でるように吹く。
そして一瞬の静寂のあとに、その風がまた吹いてくる。
しばらくこの南国、地中海風の風景描写が続いた後、妖精たちが現れて遊び戯れる。
その美しく妖艶な姿に牧神は心燃え妄想の世界に入る。
気が付けば白昼夢の世界が消え、牧神は真の眠りにつく、という具合。
ここから先の話は全く個人的な趣味の話ですが、ドビュッシーのこの作品はラヴェルをして死ぬときに聞きたいと言わしめたほど素晴らしい音楽だと思います。
私はプライベートではクラシック音楽をそれほど楽しむわけではないですが、この作品だけは別格です。
多分、小学校のころ夏休みには数年続けて西伊豆の松崎海岸に行っていたことが、強烈な印象として残っているからだと思っています。
それは海の思い出と夏の思い出です。
牧神の午後への前奏曲は、夏の午後の音楽だと思います。
寒い季節がどうも苦手です。