東京は四ツ谷にあるイグナツィオ教会が、まだ古い建物だったころだから数十年も前のことでしたか?
ルーマニアから来た合唱団の演奏会があり、聞きに行きました。
アンコールで「さくらさくら」をたどたどしいローマ字読みで歌ってくれたのですが、信じられないほど美しく感動した思い出が今でも胸に残っています。
ネイティヴではなくても、十分に美しい合唱音楽を表現できる好例だったと思います。
もちろん「さくらさくら」はシンプルで短い歌だから表現のつぼが抑えやすいのかもしれません。
それにしても、日本人は日本語で歌わなければ表現が出来ない、などと言う言説があまりに雑駁に過ぎると思った一例です。
日本人同士が、日本人が外国語で歌って表現など出来るわけがないじゃないか?など、どうして決めつけられるのでしょうか?
ネイティブの方が難癖を付けるならまだ話は分かるのですが。。。。
確かに難しい語感力を得ていなければ、表現の真髄を発揮できない作品があります。
そのような芸術度の高い作品を、表面的に歌詞の読みだけ勉強して声楽的に歌えればそれで一人前、のように思われるとすればこれは大変困ったことだと思います。
ただ、音楽というものは言語通訳みたいな部分があると思うのです。
歌における歌詞の存在は単に言葉の意味を伝える存在だけではなく、音楽と切り離せない一体化された要素ではないでしょうか?
特に芸術性の高い歌曲は、そのように作られた作品が多々あります。
そういう作品を扱うとき、普通に喋る語学力さえあればすべてうまく行くのであれば、ネイティブの人はすべてうまく歌えることになるでしょうが、そうはならないわけです。
問題は民族性や喋る言語能力の違いよりも、芸術に対する情熱と理解力、研究心でしょう。
例えば言語とか民族の違いで、芸術理解に違いがあるという問題を逆の立場で見てみると、解りやすいでしょう。
能や歌舞伎を白人種で研究熱心な方が演じたとき、日本の伝統芸の真髄が西洋人に判るのか?と思うでしょうか?
私は生半可な日本人より、よほど研究熱心な西洋人の方が理解が深いと信じています。
演劇ではないですが、文学者には多いですね。
明治のラフカディオ・ハーン。
最近亡くなられたドナルド・キーン、あるいは現役バリバリのロバート・キャンベル
音楽が抽象芸術である以上、日本人が外国語の歌を歌うことは何もおかしなことではないです。
ただし、対象に対する深い情熱と飽くなき研究心と練習は不可欠ですし、大きな責任があると考えます。