渋谷宇田川町のスウィングがあった場所

迂闊にも時代がすっかり変わってしまったことに気づいていなかった。

今や音楽は聴くだけでなく見る要素が大きいのである。
私自身は、子供から青年にかけての時代は音楽は耳からのみの情報がほとんどであった。
それはラジオでありレコードでありカセットテープでありCDだったのである。
もちろんテレビはあって大衆音楽は流行しているものであればテレビで見聞出来たが、クラシックは非常に限られていた。

年齢が30歳ころ(1980年代)になり、LD(レーザーディスク)でライブを視覚的にも楽しめる時代になったが、高いプレイヤーが必用だったので誰でもが楽しめたわけではない。
それまでは見る音楽は映画かテレビかせいぜいビデオである。究極はもちろんライブとなる。
今のように無料でyoutubeで名人の演奏などを見聞きすることなど出来なかった。

かつて渋谷の百軒店にあったJazz喫茶のスウィング。ここはクラシックの名曲喫茶「ライオン」のある場所としても有名だ。
スウィングは80年初頭に留学から帰国後に再訪すると宇田川町に移転していた。
レコードもかけてはいたが、むしろLDを頻繁に再生していて、客が大型のテレビ画面を一所懸命見ていたのに違和感を覚えた記憶がよみがえった。
すでにヴィジュアルの時代が始まっていたのだろう。

ただ、正直言って馴染めなかった。
ビジュアルで演奏風景を見ても、それで音楽性が増すわけではなかったからだ。

自分はいつまで経っても耳に頼っていたのかもしれない。
もう身体の芯まで音楽は耳で聴くもの、耳からの情報で音楽の中にあるものを想像することに身体が出来ていたのだと思う。
つまり見ることに関しては想像という脳内変換しかなかった。

ということは正にそれは読書でも同じことなのだ。
つまり読書は脳内変換によって、人物像や風景や終いに匂いや味まで再現する能力のことである。
読書に対してはコミックがある。
文字の半分は絵の解説で理解する。

どちらが良い悪いではなく、限られた脳みそという資源の使い方の問題。
我らの耳はもう退場する運命にあるのだ。
音楽芸術の将来がどうなるのか?は誰にも判らない。

ただ、最近つくづく五感というものは主観的なものであると思わされることが多い。
この音楽はこれこれこうである、この演奏家の演奏はこうであるという感想は、本来がとても個人的であり主観的なものなのだと。