講師横顔

良く主観を排して楽譜通りに演奏すべき、などと言われることが多いものです。
確かに主観を排し、作曲家の思惟に忠実に演奏すべきであることは論を俟たないと思います。

考えてみれば当たり前ですが「楽譜通り客観的な演奏」とは演奏者にとってではなく、聴衆にとってなのです。
聴衆が、演奏された音楽の形を正しく把握できるかどうか?でしょう。

演奏者の主観という意味は、この場合はルバートや奏者の気分で楽譜と違うことをアドリブでやることでなどではありません。
奏者が正しく音符通りに演奏しているつもりが聴衆にはそれが伝わっていない、という意味に捉えるべきなのです。

例えば、16分音符を歌っているつもりが16分音符に聞こえない、3連符を歌っているつもりが8分音符+16分音符2つに聞こえる等々です。
付点四分音符+8分音符が複付点四分音符+16分音符になったりという具合。
良くあるのが、4拍子系で付点8分音符+16分音符が2つの音符で表す3連符的になることです。

本来、楽譜に記されているリズムは、オリジナルの表現というものがあって、作曲家はそこから記譜法を通して音楽を表現している、というのが古典的なクラシック音楽の姿ではないでしょうか?
上述の付点8分音符+16分音符が続くと、どんなリズム感になるでしょうか?

音楽の原初は楽譜が起源ではなく、演奏されて出た音が起源でしょう。
つまり卵が先ではなくニワトリが先なのです。

作曲家は経験にある音の形を記譜法に従って書くが故に、上述のように分かりやすい音符の形に置き換えられるわけです。

音楽を判断するのは基本聴衆なので、聴衆の耳に作曲家が描いたサウンドが届けられればそれが奏者の仕事の正解である、という解釈が楽譜通りの演奏と言えないでしょうか?
このことが、演奏技術の基本が正しく出来ている、ということになるのだと思います。

ですから「楽譜通りではない演奏」を意図的に出来るのであれば、それはそれで意味があるのでしょう。