声楽の発声というのは、基本はごくごく単純な理屈です。
ただ、肉体を使った表現になるので、個別性が非常に大きくなります。
顎が動きにくかったり、呼吸が浅かったり、立位が悪かったり、と、現代人が抱える弱点が、すべて歌声の基礎の確立の障害になりかねないです。
そういう点をふまえないで、イタリア直伝の発声とかアメリカのボイストレーニングの方法論はどうのこうのと論じたり実行してみても、根本的な解決にはまったく至りません。

何も解決していないのに、本場に飛び込んでどうにかなることは絶対にないでしょう。
そこが語学と違うところです。
語学であれば、何とかなりますが、発声は何とかなりません。
なる人もいるかもしれませんが、語学の可能性の数%の確率でしょう。
語学は意味がある程度通じればよいですが、音楽は形而下的な意味ではなく抽象的で美的な表現だからです。

もし何とかなった人がいるとすれば、それは基礎が出来ていたか、よほど天性に良いものを持っていた人でしょう。
失敗して海外で自分の歌声を伸ばせないまま、ジプシーみたいに生活している人を何人も見聞しています。
山登りをしたこともない人に、いきなり冬の富士山に登れ、などという指導者がいるでしょうか?いないでしょう。
このような大事なことを、運任せにしてはいけません。

声楽のトレーニングは、自動車教習所の訓練に似ていると思います。
第一段階、第二段階を経て、ようやく実地訓練を所内でして、最後に公共交通の中で練習をするように、声楽の訓練も一定の段階を経て行くうちに、いろいろなことで出来るようになるし、本人も肉体的に感得出来るわけです。

そのためには時間がかかりますし、日数や年月がかかるのが当たり前なのです。
それも人によって個別性がとても大きい。
自動車教習所も、最低時間数で卒業できる人もいれば、1年以上かかる人もいます。
それは資質もあるし、社会人であれば仕事やいろいろな条件で変わるわけです。

自動車は正しく訓練しないで公共の中で運転すると、事故を起こして死に至る危険性がありますが、声楽演奏はそういうことはありません。
しかし死に至る危険性がないからといって、いい加減な悪い発声で歌を歌ってもらうと世のため人のためにならないでしょうし、何より心ある人であれば本人自身が苦しいはずです。

心ある指導者であれば、必ず生徒が良くなるまで面倒を見、生徒が自立できると思えば背中を押すものです。
確かに自分の仕事と経営のために、生徒を引き留めたり勧誘しているような指導者は、指導者として失格だと思います。

ところで、今年は一人アトリエムジカCを巣立ってプロの世界に行こうとしている生徒がいます。
私がその生徒の背中を押した理由はたった一つ。
私がうるさく言わなくても、本人が積極的に独りでも自立して研究して精進を続け、積極的に活動して行くであろうという確信を持てたからです。

決してその生徒の発声が完成したからと言う理由ではありません。
ありませんが、基礎の基礎は教えられたという確信はあります。
何より本人の精神的な自立が一番大事なことです。

最後ですが、指導者が持つべき資質の根本は「責任感」の有無にあるでしょう。
少しでも指導らしきことを言ったり書いたり行っている人は、その場で指導者であり他の言い換えは許されないはずですから。