以前にも確かご紹介したことのある、フランソワ・シャプランの弾くドビュッシー「映像」から「ラモー礼賛」
まったくドビュッシーがイメージした音の世界は、ドビュッシー独自の個性がありながらも、普遍的な美が持つ自然さを外さない姿を見せています。
ここに彼の天才がある、と思うのです。

つまりシンプルであること。
表現が明朗であること。
複雑で後戻りが出来ない迷路のような音楽は決して書かない。
論理と直感のバランスが並外れて良い。

イタリアのフェラーリという車のデザインは、本当にスポーツカーとしての削ぎ落とされたフォルムの美がありますね。
あれに似ていると思ってください。

ぐちゃぐちゃと複雑な様相を呈した音楽は一見頭が良さそうに見えるが、それは持っていない美を隠そうとしているからではないか?
とすら思ってしまうくらいです。
本質がないから飾りでないものを隠そうとしている。

このシャプランの演奏は、この曲が持つイメージを完璧に表現していると言えるでしょう。
ギリシャ的な明朗さと古代的な雰囲気が、ピアノという楽器固有の音色で余すところなく表現されています。

バロック時代のラモーという作曲家へのオマージュという触れ込みの作品だそうですが、
私には古代ギリシャ神話を思い起こさせるのです。

あの、オルフェの暗い洞窟からエウリディーチェの手を引いてこの世に戻る道行のように思えて仕方がないのです。
エウリディーチェの顔を一目見たくて、死の国のハデス王との約束を破って振り返ると、たちまち彼女は死の国に引き戻されてしまう。

オルフェはエウリディーチェのために歌を歌い、その歌が上手くなった。
ドビュッシーは後ろを振り向かずに地上の明るい方向に向かおうとして失敗したのだろうか?
私は誰の手を引いて、明るい未来の芸術の溢れる世界に行こうとしているのか?

久しぶりにこの音楽を聴いて、本当に純粋だったころの自分の音楽の原点に戻れた気がしました。