以前からピアノ演奏で気になっていた2つの事柄がある。
ドビュッシーの「映像第一集」の「水の反映」のコーダのテンポと、「ラモー礼賛」
冒頭のテーマ終わりの休拍の扱いである。
先日、夕食会で某氏との歓談でラヴェルの「水の戯れ」と言ったのは私の勘違いであった。
画像1のラモー礼賛の9小節目の赤枠で囲ったところの休拍だが、多くのピアニストは
ほとんど切れ目なく伸ばして、1ブレス程度で次のテーマ繰り返しに入る。
4分休符まで伸ばすのは判るとして、なぜ2分休符も伸ばすのか?が私には分からない。
この休拍は尊重すべきではないのか?
ドビュッシーは静寂も音楽という解釈をしているはずだが、その点を理解していない演奏家が多いのではないか?
古典的な西欧の美学からすると、このような東洋的な静謐の美が理解されていないのではないか?と思うがどうだろう?
そんな中、この休拍を見事に表現したピアニストを見つけた。
チョ・ソンジンである。
東洋のエスプリがここでは良い意味で活きているのではないだろうか?
ラモー礼賛 Cho seong jin
一方、「水の反映」については、コーダに出てくる4分音符の3連符が2拍を数えるところ。
ここをなぜか?急に速くするピアニストが多いのが腑に落ちなかった。
表現意図が判らないでもないのだが、不要なルバートではないか?と。
確かに曲の冒頭の指示に()付きでRubatoと書いてあるため、やって悪いわけではないが、ロマン派的ルバートであり個人的にはどうも好きになれなかった。
そこで、動画を調べていろいろ聞いてみるとイヴァン・モラヴェッツはほとんど自分のイメージ通りに演奏していた。
正にドビュッシーの指示通りではないか?
水の反映コーダ部分4分23秒くらいから。 イヴァン・モラヴェッツ
私は元々このような演奏比較みたいなことは好きではない。
しかし、かつて伴奏者がこれらの独奏を自分の演奏会で弾くために音楽表現を指導したことがあり、その際にいろいろな演奏家の演奏を動画で聴いて疑問が湧いたのである。
これらの演奏の違いが何によるのか?本当のことは良く判らない。
個人的な憶測にすぎないのだが、過去のドビュッシーの名演奏家達の演奏を伝統的に継承しているか、単なる真似で表面的に演奏してしまっているか?
うがった見方だが古典的音楽演奏観(ロマン派的、ショパン的ともいうのか?)でドビュッシーを演奏すると、ドビュッシーが本来意図したと思われる西欧の伝統から脱しようとするスピリットを阻害してしまうためではないか?
一人の大作曲家の音楽を真に理解して演奏することは本来とても大変なはずであるが、名演奏家ともなると、自分が培った演奏スタイルに作曲家の音楽を引き寄せてしまうのではないだろうか?