debussy la mer

散歩がてら隣駅前にあるフランスパン屋に夕飯用のバゲットを求めに出かけた。

10分ほども歩くと、どうやら脳が退屈になるらしく、ドビュッシーの交響詩「海」の第一楽章が頭の中に鳴り出していた。
宮沢賢治の「春と修羅」のように、あれこれ考えているうちに気づいたら目的地に着いているべく。

散歩の往復で思ったのはドビュッシーはなぜ「海」のようなシンフォニー作品を書いたのか?ということ。
というのも、ドビュッシーのそれまでの作風と違って、ドイツロマン派的なヒロイックな音型や響きがしばしば聞かれることであった。

「牧神の午後への前奏曲」のような地中海世界を思わせる温かく官能的な世界ではなく、むしろ北海の荒波を思わせることもある。
初期の甘く優しい儚げで官能的な音世界から、すっかり離れていることに当初は戸惑った。
しかし改めて脳内の音楽を良く味わってみると、小さな動機の組み合わせや大きなフレーズの絡み合い、その複層的な響きが醸し出す独特のサウンドに改めてドビュッシーの才能の凄さを感じるのだ。

もしかするとベートーヴェンを尊敬しているフランスの作曲家としての回答のようなものなのか?と考えてみたり、あるいは時々顔をのぞかせるフォスター風のメロディの断片から、アメリカのマーケットを意識したか?
あるいは、ドビュッシー個人の中で閉じられたコンセプトではなく、出版社との話の中から考えだした節もあるのではないか?などと。

デュランの初版のフルスコアの表紙は、北斎の富岳百景の神奈川沖浪裏を使っていることからも考えられるのだ。

ところで散歩途上に考えたことから、音大入学当初の私の失望に満ちた日々を思い出していた。
声楽科を受験したわけだが、私立音大の声楽科の授業内容はメチエ(職人)としての声楽家入門の勉強オンリーであり、抽象的な芸術や美学を考えたり議論するような場も雰囲気も皆無であった。
当然、そういう友人も皆無であった。

声楽といっても、そのジャンルは狭く、モーツアルトからプッチーニくらいまでのオペラ作品と付け足しのような歌曲講座くらいである。
それに申し訳程度のの音楽史とソルフェージュ、そのころは固定ド万歳の時代で、ドイツ音名でコールユーブンゲンを読まされたし、
声楽のマンツーマンレッスンでは、コンコーネを固定ド唱法で歌って、間違わなければはい次はい次で終わるだけ。

あれよあれよという間に、3年生からヴェルディの難しいはずのアリアを与えられて、試験に臨む日々であった。
発声のハの字も教わらなかった。
覚えているのは指導者のそっけない言葉「バリトンてのはな、もっとぼーぼーとした声で歌うもんだがな~」(笑)

自分が研究したいテーマを選んで研究する、というような授業は皆無であった。。
それでも入学時にすでに23歳だった私は断崖絶壁で後がなかったせいもあり、そんなチープな内容でも必死でメチエとしての勉強に明け暮れた。

今でも思うのだが、大学は職人養成所としてではなく、自主的な学問探求の場であるべきではないだろうか?
職人養成所ならば大学ではなく、専門学校であるべきだろう。

そもそも芸術を志すはずの者が、学校を卒業した後にサラリーを当てに出来る訓練を大学に臨むこと自体、私はおかしいと思っている。
大学は専門的な研究機関であり、音楽については音楽学とか美学、音楽史あるいは楽器や声楽の音響的、声楽的な研究部門を発達させるべきではないだろうか?

つらつらとそんなことを思いながら、気づいてみれば我が家の門前に到着していた。
およそ1時間ほどの詩的散歩で後味は甘美であった。