日本は合唱がとても盛んで、全国の合唱団が集まるコンクールには驚く程多くの合唱団が集まる。
自身も小さな女声合唱を指導しているが、特に邦人作品の詩の選出や音楽の作り方がとても上手いと思う。
音楽が繊細でスタイルが洗練されている。

ただ、それらの作品を指導したり他団の演奏を聴くと、そこに一つの共通点があることに気づく。
私が考える合唱という形態と、歌われている歌詞がそぐわない印象を得ることであった。
特に古典文学の短歌や、近・現代の詩人の詩を合唱曲にするケースである。

これらの詩は、個人的な想いを詩という形態で表現したものと思う。
そのような歌詞を大勢の歌い手によってステージ上から正々堂々と歌われると、どうも心がざわざわするのである。
これらの合唱作品は、合唱団で歌う各個人の歌う満足度の高さが目的になっていないだろうか?

本来の皆が声を合わせて歌われるべき合唱作品とはどのようなものだろう?

自分の経験で強く印象が残っているのは、林光の「うた」である。
これは劇中歌のようで、声を合わせて歌う素晴らしさの手ごたえは大きかった。
理由は、群衆が反戦という目的を訴えたくて歌う事が目的になっていたからだと思う。

当たり前だが、大勢の人間が声を合わせて歌うものが合唱本来の姿だと思う。
大雑把にジャンル分けすれば、宗教と劇やオペラということになるだろう。
目的が明快だからである。
個人的な好みで一例を挙げると、ワーグナーの「パルジファル」第3幕で騎士たちによって歌われる合唱である。

作曲家個人の試みとしての合唱作品を考えるのであれば、
音響効果的に大勢が一人の歌声を表現するようなスタイルが模索出来ないだろうか?
つまり合唱団員個々人の歌う満足度に寄り添うのではなく、合唱作品としての完成度の高さを目的としてほしいのである。

作曲家も合唱団の希望や楽譜販売という多くのニーズに応える必要もあろうが、作曲家個人の高い芸術への創作意欲にあふれた作品に接したいと思うのである。