声楽への違和感から理解へ

今回は声楽家の歌声への違和感をもう少し詳しく書いてみました。

改めてご理解いただきたいのは、私の個性として他人が良いと言ったから良い!みたいな発想がゼロであるということです。
別に自分に自信があるわけでは全くありません。
ただ自分が感じ取ったことを他人の言に任せて否定せず、まずストレートに己の感性を肯定するという習慣とでも言いましょうか?

さて「違和感」ですが、例えばドイツの高名なテノール氏が歌ったドイツリートでは高い声になると首が締まったような印象が不快でした。
また日本で聴いたオペラで歌われていた歌声は、時として歌詞を歌ってるのか?何を言ってるのか?その不明瞭さが気持ち悪かった。
しかし、フランスに留学してオペラ座で聴いた名人たちの歌声は、まるでレベルが違って素晴らしかったことをよく覚えています。

二期会の養成所時代、とある生徒の半音くらい幅のあるビブラートの大きな声を「あの子の声は美声なんだよ」という先生の美意識に驚かされました。

美声って何??

しかし、その後自ら歌うこととコンサートに行く経験を積み重ねて行くことで、声楽の歌声を理解し楽しめるようになりました。

私に限らず演奏を聴いた経験がない者にとっての声楽家の歌声は、それまで聞いていた自然な歌声とはかけ離れたものと感じるでしょう。
例えば「千の風」を歌った声楽家の歌声などその典型、といえば理解しやすいのではないでしょうか?

音大入学当時の私が違和感の経験を通して理解しようとしたことは、音楽が作曲された年代の古さを積極的に良く捉えるということでした。
つまりそのスタイルの古臭さに対して「郷愁」を感じようとしたとき、ぴたりとはまった部分ががあったのです。

当時渋谷に出来たばかりのパルコのTVCMで、ハンフリー・ボガードとイングリッド・バーグマン共演の映画「カサブランカ」の1シーンが使われたことをを想い起しました。
映画の中でAs time goes byがBGMに流れてモノクロフィルムの二人の画面が大写しにズームアップされるCMは見事でした。

「郷愁」という言葉の中に骨董品を愛でる精神があると思います。