最近の声楽家の歌声を聴く機会が何度かあり、想ったことです。
これは、今に限らずこの世界に入った時から想っていたことです。
それは、声楽演奏のひな型というものがあるとすると写真にたとえれば絵葉書の写真です。
富士山が真ん中にでんと構えて、その山頂付近は白く冠雪し、背景の空は真っ青、前景の紅葉は見事に赤が映えている。
もちろんピントはどこにもきっちり合っています。
大多数の声楽家の歌声によって表現される音楽が、そのような印象を与えるとすると、これは歌う曲を選ぶはずです。
しかし、どの曲もそういう表現がふさわしいとは言えないほどに、音楽作品の表現の幅は広いです。
このことで勘違いしやすいのが、声楽は声を楽器のように扱うという意味です。
楽器のようにといえば、たとえばヴァイオリンは、何を演奏してもヴァイオリンの音しかしません。
これと同じように考えてしまうと、ソプラノは誰が歌ってもソプラノの音しかしないとすると、曲によっては誰が歌っても同じでは?ということになるでしょう。
どうも声楽家の歌声の表現が、一般的にこのようなステレオタイプな歌声で何でも歌ってしまうことにあるのではないか?という疑問を投げかけたかったのです。
冒頭の写真の話に戻ります。
確かに絵葉書的な写真が好きな人もいますが、嫌いな人も多いです。
モノクロ写真が好きな人もいれば、カラーが好きな人もいるし、ピーカンの青空真っ青の写真が好きな人も嫌いな人もいる。
写真の世界なら、どの写真も同じような露出とピントの合わせ方で撮影したりは絶対しないわけです。
それぞれのジャンルに応じた、撮影方法と機材があるわけです。
そういうことが表現に適っているからでしょう。
写真と声楽はまるで違いますが、表現という視点で見れば応用が効きます。
それは、声楽家の場合も一つのジャンルに特化した声作りを徹底させることによって、個性ある声楽家を輩出させる一因になるのではないか?ということです。
その考え方をするための一つが歌詞の言語に特化した教え方です。
発声の基本は一致するが、歌詞発音の音楽性は発声と密接に関わっていると考えた方が良いと思うのです。
それから、オペラと歌曲も発声を分けて教えるべきと思います。
オペラの歌声は、PAを使わない限りは音響的に絶対的な基準値をクリアしないと演奏が成立しません。
一方、歌曲は100人も入らない小さなサロンからせいぜい大きくても300人くらいのホールまでの大きさで、ピアノ伴奏や室内楽が基本になります。
この両者を同じ技術でカバーさせようとすること自体には無理があると考えます。
もちろん素晴らしい技術を持った名人であれば可能なのですが、私が言いたいのは、誰もが世界の5本いや10本指に入る名人にはなれない、という現実的な大前提の上でのことです。
実際はオペラで歌える声を教育された歌手が、それほどオペラの仕事もなく、サロンでピアノ伴奏によるアリアや歌曲を歌うことが多いわけです。
しかし何を歌っても強声で歌ってしまうため、繊細な音楽が声によってどこかに押しやられてしまう演奏が多い、と感じています。
現実は、声楽家が多くの仕事をしたいがために、オペラから歌曲まで、挙句の果てにはドイツリートもイタリア歌曲もフランス歌曲も日本歌曲も何でもござれ!では、無理が祟ろうというものです。
個人的にその理由はとても良く解りますが、長い目で見た日本におけるクラシックの声楽演奏を広めて行くためには、ジャンルによる声楽家の個性をもう少し極めた方が良いのではないでしょうか?