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生徒さんと話をして思いついたことですが、声楽の演奏というのは一般に声が伴奏より勝っていて声だけ聞かされる印象が強いのです。
このチェロソナタとか、クラリネット、その他器楽とピアノとのアンサンブルを聴きますと、両者の絡み合い、アンサンブルがとても美しいことに気付かされます。
声楽もピアノ伴奏であればそうあって然るべきで、大きな声ばかり聞かされると、たとえ美しい声だとしても、すぐに飽きてくるでしょう。
私が以前この道に入る前にいわゆる「声楽」が嫌いだったのは、この声ばかり前に出てきた演奏スタイルが嫌いだったのです。
声ばかりが前に出てくるというのは、言い方を変えれば、なんだか自己主張の強いでしゃばりに付き合わされている気がするのです。
でも私のこの印象は実は間違っていたことで、プレイヤーの巧拙に由来することだったのですね。
本当に美しい良い声であれば、決してこのような印象を持つことがない、ということを知ったのはモラーヌのライブを聴いてからでした。
一方、私が歌曲に魅かれるのは私がピアノが好きだからなのです。
始めてクラシックというものに触れたきっかけもピアノからでした。
それ以来、たとえばドビュッシーに触れたきっかけも、ギーゼキングの弾くドビュッシーの前奏曲集の録音だったし、ラヴェルもプーランクも、そうでした。
父が弾いていた、ラヴェルのソナチネはお世辞にも上手いピアノとは言えなかったですが、あのバスク風のラヴェル独特の和音の響きに本当に魅了されました。
作曲家は、歌曲を作れば、ピアノ伴奏にも精魂こめてピアノという楽器の個性を光らせますから、ピアノ伴奏で歌う演奏そのものが、作品として完璧なスタイルになるわけです。
しかし、オペラのアリアは、オーケストラの伴奏を編曲した形になりますので、オペラ伴奏のピアノは、疑似体験でしかないのです。
ですから、伴奏はそっちのけで、歌手が素晴らしく歌手の声だけで聴けるのがオペラアリアだ、と言えば、いかにピアノ伴奏で歌うオペラアリアが、演奏として成立するために難しいものがあるか?
がお解りいただけると思います。
そういう意味で歌曲のほうが演奏しやすいし、誰がやっても無理がないのです。
ところでこのフォーレのチェロソナタ、OP109フィナーレは、素晴らしく美しいです。
彼の音楽くらい、幸せという感情を、ストレートにではなく、そこはかとなく、けれども、いつまでも続くような幸福感を表せた人はいないと思います。
このフィナーレではピアノがチェロの音が出せない瑞々しさを良く出しています。
水がピアノならチェロは水の上を流れる舟でしょうか。
そんなイメージが湧いてきました。
このCDにはドビュッシーの晩年のチェロソナタも入っていますが、残念ながらフォーレの陰影深い美しさの陰にはっきりと生彩を欠いていました。
印象として、音楽が解りやす過ぎるのです。
ドビュッシーが大声で演説をぶっているのに対して、フォーレはぶつぶつと小声で詩を朗読しているような違い、でしょうか?
フォーレの、特に後期のメロディーは、明らかに簡素化されていて、無駄がありません。
大声でもなく、また気障なことも言いませんし、的を得たことも言いませんが、語り口が美しいのです。
語る内容ではなく、その語り口に妙味があるのです。
ですから、少し耳を傾けて我慢して聞いてやらないといけません。
一見地味で、けれんみがないので、とっかかりが悪いですが、その我慢が続くと、いつのまにか彼のサウンドの奥深さに魅了されるようになると思います。