音楽が判った、詩が判った、という意味は、学問的、実証的な意味ではありません。
私がこの歌を通して、イマジネーションを得ることが出来、合点がいったという意味です。
そもそも、詩などというものは、学問的に正しい解釈や理解など到底出来ません。
あるいは作者が解釈を話したり文章化しているかもしれません。
しかし、作者が意図しても、違った解釈も出来てしまうのが詩というものだと思っています。
音楽もそうでしょう・・・
こういった点が、多くの先達が残す言葉「音楽は(芸術は)教えられない」ということに集約されているのだと思っています。
フォーレが書き残した「僧院の廃墟にて」の音楽から、私はどうしてもこの詩の中で語っている(女性)が、
かつて経験した恋愛の楽しさや美しさを思いだし、ノスタルジックに語るというシチュエーションを思い浮かべてしまうわけです。
どうしてか?それは、この詩に付いたフォーレの音楽が、そう思わせるからです。
そう思わないと、自分が合点が行かないのです。そう思えば、この曲が理解出来るわけです。
だから、これは私だけの理解なのです。
芸術の理解というものは、それで良いのです。
あるいは歌手としての自分にとって、そうすることが一番歌い易いことに繋がるのです。
ところで・・・こういう解釈もあります。
僧院の廃墟=死んでしまった宗教(キリスト教)
その廃墟で愛し合う=宗教からの解放!
こういう解釈の方が、もっともらしいですよね。いかにも学問的!時代背景や文化状況などに符合しているとは思います。
しかし、こういう堅苦しい解釈からあのような音楽が生まれるのでしょうかね?
あるいは、そういう真の背景の上を、このような軽やかで美しい詩を描くことで、真の状況を包み隠し、
表面的な美しさでオブラートに包む、というその技能そのものに、作曲家のアピールの力があるのかもしれません。
芸術の持つ奥深さを感じさせてくれる、小品です。