彼女は2回目だけど華やかで美しい声の印象があった。
その歌うフォームはちょっと独特で、顔を少し上げて喉で探って出すような印象があった。
それは特に中音部~中高音付近にかけて。
高音域、2点G以上になるとそれがなくなるのだけど、声のアタックのせいで何か強く押さないと出せない、という印象があった。

今日、改めて発声練習を聞いてやはりその通りだった。
彼女が声を壊さないで、かつ彼女自身が気持ちよく歌えているのであれば殊更に言うほどのこともない、とは思ったのだが、合唱をやっていることと声を壊したことを考えて、高音域の頭声の練習をしてみた。

誰にでもやるように、ハミングで薄い響きを練習する。
基本的にはピッチを高く正確に当てることで、自ずと声帯は薄く開く傾向になる。
これはハミングでやるのが良い。
なぜなら、母音でやるとどうしても喉や下顎に力を入れてしまうから。
そうなると、声は胸声区の傾向が強くなる。

ハミングでピッチを高く、と言えば、嫌でも軟口蓋を上げて出すだろう。
そうすると嫌でも胸声区の響きが陰を潜めて、頭声、というか声はメッザボーチェになる。

メッザボーチェの高音が使えると、何より喉の負担が少ない、音程が良い、響きが混じりやすくなる、という色々な利点がある。
それから、彼女くらい歌える人、声を扱える人であれば、声のフォルテというのはメッザボーチェが基本になっていることが、とても大切なことだ、と思う。
なぜなら、声の減衰、増加が自由自在になるだろう。

ハミングで2点G~bの間を下降形、あるいは上向形で慣れるまで練習して、最後に母音に換えててやってみると、薄いけどもピッチの高い綺麗なメッザボーチェの響きが出せるようになった。
要は息を通す感覚だろうか、息を使う意識だろうか。
また、上を開けるためには、むしろ顎をあまり出さないで、首筋の後ろうなじが縦に良く伸びた姿勢も良い効果をもたらすだろう。

後はドミソ~ファミレドで、一番高いソで上記のメッザヴォーチェで、同音でクレッシェンドして下降する、と言う練習。
下から上がる音形の場合、最初の響きがとても肝心で、押してしまうと高音が重くなってしまう。
低音は軽くアタックして高音まで行ってからクレッシェンド。

今は喉の負担が気になるが、クレッシェンドしたフォルテはもっと響きが出せるようになるはずである。
今はクレッシェンドすると、ややビブラートが強めにかかるが、少し逃げている感じかもしれない。

これはこれで、今度は胸声区あるいは中声区(ミックス)の練習が必要になるが、それほど急を要する、というものでもないと思う。
曲を歌いながら自然に身に付いてくることでもあると思う。

今日は、モーツアルトのRidente la calmaを歌ってくれた。
明るい華やかな声だが、少し中低音の響きが必要以上に浅く、平たい印象。
また、歌いながら顔が愉しそうに動いて、とても可愛らしいイメージでそれは良いのだが発声、あるいはこの曲の本来のイメージからすると、ちょっと違うかな、と思った。
テンポも速かった。

モーツアルトの音楽は表面的な明るさ晴朗さと対象に、中身は意外とシリアスだったりする。
音楽と同じことを歌で二度押しするよりも、歌詞の内容に忠実に、シリアスに歌う方が、良い意味で大人っぽいし、音楽的にも立体感が出ると思う。
おばさん臭くなるのが嫌、とのコメントであったが、充分に素敵な大人の女性なのだから、何も必要以上に若々しくする必要は無いと思ったし、自然体の女性の方が素敵なのだ。
と、個人的には思う。

中低音は声のアタックは高く、軟口蓋から始める意識が必要だが、口をあまり横開きにしないで、上唇を良く使うことで、自然に軟口蓋が上がるし、下唇を使えば、今度は喉が下がる。
良く口を、縦にとか丸くとか言うのは、こういう発声上の意味がある。
軟口蓋を上げることと喉頭を下げることのバランスがここでも自然に出来るだろう。

また、唇を良く使ったアーティキュレーションは、外国語で歌う声楽にはとても大切だと思う。
そのことで、母音の日本的な喉っぽさも取れるし、響きも深みが出る。発音に無駄がなくなる。
また、中低音は、あまり口を開くよりも閉じ気味の方が声帯が合って、息漏れがなくなり響きが高く明るく出易い。

後は、フレーズで高く上がったらそのフレーズは途中で響きを変えないこと。
要するにチェンジ領域をまたいで高く上がった響きは、下がるときに下にチェンジしないことも覚えて欲しい。そのことで、響きに繋がりが出て、いわゆるレガートな唱方になるだろう。

これらのことで、見違えるほど優雅なモーツアルトらしいRidente la calmaが出来上がった。
ちょっとのことで、見違えるほど良くなる基本というか、センスの持ち主だ。
彼女は歌い方、あるいは音楽のスタンダードがぐらついていたか、迷いがあったのだろう、と思う。

声をある程度までは正確にコントロール出来ること、で、喉の負担も軽減できるし肉体的な余裕が生まれることで、彼女が本来持っている音楽性が発揮されると思う。
コントロールできれば合唱だろうが、ソロだろうが自由自在、な筈だと思う。
次回は、今日のモーツアルトの復習と、ロッシーニの「約束」を約束した。

さいとうさん

来るたびに見違えるほど良くなっていたが、今日は本当に良くなった。
発声練習をしたが、ほとんどいじる必要を感じなかったくらいである。
これは、完璧、という意味ではなく、現実的に、という但し書き付きではある。

現実的、という意味は、彼女自身のキャラクターと趣味嗜好の範囲であれば2点b以上の高音をあまり躍起になって追求する必要を感じない、ということと彼女の趣味からすれば、必要以上の声量も追求の必要を感じない。
いわば、必要にして十分な声量と響きが発声練習では得られるようになった、ということである。
彼女はこれからは実際の曲と対峙しながら、声のことを自然に克服して行けると思う。
音楽に導かれる、と思う。
それだけの音楽的な理解力に長けているし、そう信じている。

声域の広さとか、声量の豊かさも得がたいものだが、正しい音程と美しいレガートが大切なのは特に彼女のように、バッハなどのバロック時代の宗教作品を歌う場合である。
旋律の形がはっきり正確に出ないと、器楽的な作品の美しい味わいが半減してしまうし非常に個人的な感情の毒々しいまでの露出趣味よりも、もっと清澄で謙虚な姿勢が音楽に顕すことが大切になってくる。

そういう点で、これまで彼女が格闘してきたマタイ受難曲のBlute nur とIch will dir mein herze schenkenは、ようやく80点くらいの域に達した。
声そのものよりも、音程が不確かになってしまっていた。

今は、声質に拘泥するよりも、正しい音程、器楽的な歌唱の方が優先したい、というこちらの思惑もある。
基本的なところで、音程が取れていないのではなくて、ピアノのほんの少しの音の変化やクロマティック(半音階的)な進行に乱されてしまって、不確かになる、という傾向が強いようである。
後は、声のチェンジの関係だろうか、2点C~Eくらいが不安定になり勝ちであった。

また、ピアノ伴奏と声を合わせる経験が少ない、ということもあるだろう。
今回、この2曲をかなり徹底して音取りに専念したので、今後は大分慣れて早いだろう、と期待している。
また、教える身としても、実はこれらバッハの宗教作品のアリアは、仇やおろそかには出来ない。
きちんと端座して、いや、ピアノの前に端座し弾き、心して教えなければならない。

今日もこの2曲を徹底して音程と格闘して、ようやく良い線までこぎつけた。
次回、この2曲をもう一回だけ復習して、良ければ「抜けば玉散る氷の刃!」であるAus liebe、いよいよこのぞっとするほど美しいアリアを譜読みしようではないか!