イゾルデのアリア「愛と死」
2つのポイント。
1つはフレージングの激しさ、長さ、大きさ、これは勿論ピアノとの一体。
これを充分に表して欲しい。
2つ目として、声の扱いは弱声を意識するとアタックが遅れる傾向が強い。
弱声は、特に中低音域はあまり声に頼らずに、伴奏に任せておいて、きちっとアタックを処理することを大前提に。
クレッシェンドの幅を大きくすることが目的ではなく、あくまで良い声のアタックが出来ていること、を大前提に。
そのことがブレスを長くするし、幅が狭くても良いクレッシェンド、あるいはディミニュエンドにつながるだろう。
ある程度譜読みも進み、音楽の全体像も頭に入ったところで、もう一度この曲の本来のテンポを大切にしてみよう。
出だしは、どうしてゆっくりしているのだろう?と考えてみて欲しい。
どういうシチュエーションで、どういう感情でイゾルデはMird und leiseと語り出すのだろう?
その感情になり切るのではなくて、その感情を旋律という型を借りて、表現してみよう。ということだと思う。
出だしに限らずそれは全編に渡ってのことであることは、論をまたないだろう。
このアリアが始まるのは、どういうシチュエーションでなのか?ということを大切にイメージして作って欲しい。
ワーグナーの音楽は非常に男性的である。
それは、例えば暴力的なまでの激情、力強さ長大さなどなど。
大きな波の揺り戻しや、偉大な夕日の沈む風景のような、大きな音楽である。
それが魅力であるから、その起伏をピアニスト共々充分に表して欲しい。
長く激しいフレージングは、ピアノと共に長大なアッチェレランドも必要だろう。
この程度で良いだろう、バランスが取れているだろう、という「良い趣味」をはるかに凌駕するくらい、下手をすると悪趣味に一歩近いくらいである。
ドビュッシーなど後を続くフランスの作家達がまったく逆のアンチテーゼをワーグナーの音楽に対して出したのは、
逆説的に言えばこういうワーグナーの音楽に抗しがたい魅力を感じていたからに他ならないわけだから、それを表現しないで
何を表現するのだろう?というくらい、表現して欲しいのである。
デュパルク「フローレンスのセレナーデ」の歌唱がまだ棒読み状態だったので、私が歌ってみた。
真似してもらえれば、何のことはないピアノ伴奏を気にしすぎだったようだ。
これは彼女に限らないが、またどの曲でもとも言えないのだが、ピアノ伴奏は、その音楽の器楽的スタンダードを表しているのであって、歌は自分のブレスで自分の歌を自由に歌うという意識が大切。
伴奏に合わせなければ、ということはあまり考えなくても良いと思う。
自分の息で自分の旋律を作ること、を大切に。
要するにピアノの前奏がありました、さあブレスをしました、さあ歌います、そして出てきた歌が前奏の奏でる音楽の持つビートより
結果的に早くても重くても、それは歌手自体が納得したブレスをして、そう歌いたい理由があって、やるわけ。
伴奏プロの凄い人なら、一回合わせれば歌手がどう歌いたいか?を嗅ぎ分けて前奏を弾く、あるいは伴奏のテンポを作り上げる、あるいは歌手の弱点を補う、あるいは歌手より目立とうとする、それは音楽全体を良いものにしたいという純粋な創作意欲の為せる業であるはずだ。
基本的には伴奏者を信じて!歌いたいように歌うべきだろう。
「悲しい歌」は最初の伴奏テンポが速すぎた。Lentである。ゆったり。
歌もだが、特に出だしの節はまったりと平らかに。先に進んではいけない。
勿論テンポが淀んで息が苦しいのは論外だが、進む音楽ではない。
逆に言えば、意地悪いが伴奏者が早く弾き出したら歌はゆっくり歌っちゃうくらいの厚顔ぶり、あるいは自分勝手さを持てるだけの
自分の音楽を歌うことへの自信を持つこと。
最初の音楽パートの歌詞は情景描写だから、ニュアンスは要らないわけ。
Et pourfuirから音楽は動き始めて加速し出す。
なぜなら、個人の思いがそれまでの情景描写を背景に吐露されてくるところだから。
結論としてJe me noierai dans ta clarteと個人の心情が第一節の結論を締めくくるわけ。
一例としてあげたが、歌詞の内容を音楽を仔細に検討すれば、そこには当然のように古典的な起承転結が大きな単位で、あるいは小さな単位でも存在しているのが分かると思う。
そういう起承転結を歌で明快に表すことをして欲しい。
どうして3連符でUne balladeを表しているのか?大事な言葉だからだろう。
そういった、形の特徴を良くつかんでそれをお客さんに、こうですよ~っとはっきり示してあげることである。
このアナリゼの仕方は、どの音楽も共通に使えるので、分かると応用が利くはずである。
声のことは良く歌えているから今はこの調子を大切にして欲しい。
中長期的な課題はあるが、本番が終わったら取り組みたい。