今日は良い声、良い歌を聞かせてもらった。
恐らくここに来て初めてではないかな?彼女の本当の素直な歌声を聞けたのは。

発声練習を始めると、お腹から声が出てこないので、低音からやり直した。
そして少し意識して喉を深くしてもらって、出す練習をしたのだが、これが逆効果だった気がする。
やればやるほど胴間声になってしまう。

このところ、発声練習について考えさせられることが多いのだが、発声練習というのは非常に限られた範囲で、声の生理的な問題を考える練習なのだけど、ついついそれ自体を目的としてしまう危ない面がある。

結局いつものように喉の力みをなくして、浅めに発声してもらうと丁度良いところが見つかった。
時間が経てば声もお腹に付いてくるようである。
何年教えても、教えることの難しさを感じる。

曲はイタリア古典のSebben crudeleから。
最初の通しは、発声練習のせいか力みが強く、かつ言葉でフレーズがぶち切れてしまうものであった。
もう一度やり直すに際して、喉を楽に浅めにして、ただし姿勢は良くしてもらって母音をイにして母音だけで練習した。
これが功を奏して、その後歌詞を付けて歌ったが、伴奏を弾く音楽まで変わるくらい彼女の声が変わったことが判った。

というよりも、もしかしたら私自身が変わったのかもしれない、と思った。
伴奏のテンポを落ち着かせて、ゆったりと弾いてみたのだった。
彼女の声は、切なく女らしくて、なんとも人間的な慈しみに満ち満ちたものだった。

こうなると客観なのか主観なのか分からないが、確かにあの演奏は素晴らしかったと思うのだ。

声というのは本当に神秘的だ。
ちょっとした発声で、その人の本質が現れるしあるいは隠れてしまう。
声楽家に良くあるのが、この本質を隠してしまう歌である。
声量もある、声質も明るい、音程も良い。
しかしながら、その音楽が本来持っているものが感じられない演奏である。

このことはクラシックの声楽指導において、大きなテーマなので軽々には論じられないが、私自身が教えることを通してテーマにしたいくらいである。

さて、その後イタリア古典2巻の珍しい曲をさらってきてくれた。
Se brel rioという曲。作家の年代をみるとルネサンス後期のようである。
この時代に特徴の明るく典雅な旋律と、こぶしを思わせる声の修飾が実にチャーミングな曲である。
良いセンスである。6/8のリズムを3拍子を感じながら軽快に歌って欲しい。
また、丁寧に書いてくれているritはグッドセンスだから、これを忠実に守って歌うとこれまたチャーミング。
次回も勉強しよう!

最後にショーソンのLe colibri
こちらは難しい。
慣れない5/4のテンポに四苦八苦していた。
考えすぎないで、むしろ1/4に感じて歌い続けていれば、自然に合うはずである。
テンポ感で捉えようとすると、罠にはまるのである。
リズムだけは良くさらっておいて欲しい。