初めての留学・・・2000年1月15日

初めて留学したのは1983年、27歳の時である。これは初めての海外体験でもあった。今考えるとおかしいが、もう少し知識の準備や心の準備があれば良かったな、と思う。いきなり留学で海外だと最初のショックも大きいのだ。パリに着いて早々にこのまま少なくとも一年は帰れないと思ったら、想像が出来なかったのだ。それくらい、最初から訳の分からないカルチュアショックがあった。緊張感が大きかった。
パリの街は、とても素敵だけど、それは東京などが持っている柔らかい、悪く言えばぐずぐずとした無緊張感とは大きく違っているのだ。一番大きかったのは外国人居住者の多さである。
例えば、雑貨屋がある。パリの街は雑貨屋は大概アラブ系の人がやっている。このイスラム系の人たちの風貌は、能天気な日本人からするととても恐いのである。彼らは、仲良くなるまでは決して気を許さない。こちらが、買い物客でもにこりともせずに、人をねめまわすように見、睨み付けるくらいだ。
買い物するにも、最初はどこで何を買って良いのかが良く分からなかった。おまけに日本との買い物のスタイルの違い。
例えばパン屋にしろ、肉屋にしろ、近所の個人商店に買いに行くと、日本と違ってまず店員に、商品を告げ包んでもらう。そして会計の紙切れをもらって、CAISSEという会計係のところに行って金を払って、再び商品担当の店員のところに行ってその支払い済みの証拠の紙と引き換えに商品をもらう訳だ。たかがニンジン一本、ハムを数切れ買うだけで、キチンとした会話が要求される訳だ。
さて、パリに着いて一ヶ月しない内に高熱を発して倒れた。これには理由がある。日本から送った別送りの荷物が税関で引っかかって、もらえなかったのだ・・・・続く

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フランス歌曲を歌うことになった経緯について・・・12/08/99

そうやって声楽家になるつもりもなかったのに、声楽家になったのは師匠の影響力が強かったのと同時に元々フランスの音楽が好きだったからである。作曲家としてのドビュッシーに憧れがあったので、歌うならドビュッシーやラヴェルの声楽作品を歌えるようになろうと思った訳である。ただそれだけである。
それまでは、クラシックの声楽作品が好きだったというよりも、むしろ積極的に嫌いであった。
特にオペラなどの歌唱。妙に太くて大きな声を出しているだけ・・という印象が強く、嫌みな感じがしたものだった。だが、ある時にとても良いものだと言うことに気づいたのは、プッチーニのジャンニ・スキッキだったろうか・・学校で誰かが小さなラジカセで聞いているのを小耳に挟み、音質が悪かったのだが、昔のSP盤を聞いているような懐かしい、いわばレトロな音楽の印象が強く残ったのである。
そうやって、クラシックな音楽を捉えてみると、クラシックの音楽が持つ過去の精神の抽象的な再現・・・という特質が良く分かったのである。
さて、フランス語も勉強しなければならない、ということで今も飯田橋にある日仏学院に一生懸命通って勉強したものである。中学までは、英語も大好きだったせいか語学の勉強にはそれほど苦労はなかった。
とにかく読めるようになるために、歌曲でもシャンソンでも、聞きまくったものだ。歌詞カードを見ながら、レコード(CDではない!)を聞き、目茶苦茶でもなんでも真似をして歌うのである。とにかく耳と体に言葉の音律を叩き込む訳だ。この方法は、小学校の4年頃から好きだった、ビートルズのおかげで覚えた、外国語を読めるようになるための練習方法である。
そんな調子で歌曲のレッスンを始めたが、一番苦労したのは読めるだけでは、てんでお話にならないこと、そして声楽でもっとも難しい、発声の問題であった。
これが、私の声楽道!苦難の道の始まりであったのだ!

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初めてのコンサート・・・11/17/99 15:25:44

話は前後するが、私が始めてコンサートを体験したのは実は中学生の時であった。今になってみると、自分が声楽家になるとはあの時夢にも思わなかった。それは、同級生のNさんという成績優秀な女の子が学校の文化祭のために歌曲を作曲し、その歌の発表のために私が選ばれたのであった。これを読んでいる皆さんは多分、私がそのころから良い声を発揮していたので選ばれたのだ、と思われるだろう。しかしそれはまったく違うのである!
当時の私はまったく学校の行事、クラブその他に参加することに消極的であった。勉強はそこそこの成績だったが、音楽の先生に目を付けられていた。物事に消極的だった自分に目をかけてくれ、あえてその曲の演奏を自分にさせてくれたのだと、今になってみると思う。その後にも大田区の中学校のコーラス大会出演者の人選にも自分が選ばれたのだ。選ぶに当たって、男子生徒の声を聞くため音楽の授業の時にクラスの男子生徒全員が一人一人歌を歌わされたことがあった。私はそのことが分かっていたので、わざと、一オクターブ低くして歌ったのだ!そのことが、かえって先生の目に留まる原因になったのだろう。自分が選ばれてしまったのだ。
さあ、いざ本番の時、学生服のズボンの内股のところの縫い目がほころびていることに気づいた。しかし、間に合わなかったので、そのまま舞台へ出ていった。意識しないで歩けば良いものを、そのほころびを見られたくないあまりに、片足をひきづるようにして出ていったものだから、舞台に出た途端に笑いを取ってしまったのだ!
それでも歌はなんとか歌い終えた。でも笑われたことを恥じる気持ちはなかった。むしろみんなに笑われてなんだか気が楽になったことを今でも覚えている。
それから、10年くらいして音大に入り、自分がついた先生の発表会で初めて歌った時、舞台の緊張感と終わった後の充実感、そしてライトを浴びる気持ち良さを体験した。
中学の時、せっかくあの先生が自分に与えてくれたチャンスをしっかりと受け止めていれば、こんなに回り道せずに音楽の世界に入れたのだな・・・と最近思うのだ。続く・・・トップヘ

師匠のレッスンその2・・・11/04/99 23:33:32

そんな訳で、レッスンにまじめに通い出したのが25歳の時だった。飯田橋にある日仏学院に行ってフランス語もまじめに勉強し出したのもその頃のことだった。ところでレッスンに通い出して少し困ったことは先生の言葉が少々抽象的、あるいは文学的だったことである。具体的というよりは暗喩に満ちていた・・と言うべきか。
とにかく声がうまく響かない、言われていることが、声のことなのか、表現のことなのかがわからなかった。ラヴェルの「ドンキホーテ」を練習し過ぎて生まれて初めて声帯にポリープを作ったのもこの頃のことである。
それから、最初苦手で嫌だったことが、フランス語の朗読であった。歌詞のフランス語を朗読するのだ。もともとフランス語は読めたので読むだけならば苦労はなかったのだが、それらしく朗読するのが至難の技であった。意味を日本語に置き換えて読もうとしてもそれをフランス語の韻律に置き換えることは出来ないのである。このことが分かって、多少それらしく読めるようになったのはフランスに留学してからのことである。
その前に先生は日本語による朗読それから、芝居の台本の本読み、芝居の簡単なイロハなどについてもその重要性を説いていたものだった。そのために、先生が講師をしていたある、バレー教室のプレイヤークラスというのにも通った。ここでは、なんと!バレーの基礎まで教わったものだ。黒いタイツを履いて基本の立ち方や、バーに掴まってやる基本動作、歩き方の稽古、などなどなど・・・今考えればなんでもやれることはやろう!という気概に満ちていたものだった・・・
ある日、いつものように声楽のレッスンに行った時のこと、声の調子が悪くその言い訳をした。すると先生はこう言ったものだ!「生身の人間だから良い時もあれば、悪い時もあるだろう。悪い時にどうするか、どう出来るかを考えなければいけないのだ!」この言葉は、今でもぼくの演奏という仕事に対峙する時の大事な言葉として胸の中にしまってあるのだ。続く・・・・
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師匠のレッスン・・・10/30/99 00:03:33

村田先生のお宅にはじめてレッスンに行き、まず「山中君!もし君が旦那芸って人様から言われたくないのなら死ぬ気で10年勉強しなさい!そして10年経って芽が出なかったらそれで止めれば良いじゃない」と言われたのを今でも覚えている。若くて純情だった自分がその言葉を受けて、その後死ぬ気だったどうかは分からないけど、10年はマジメに勉強したのは事実だ。
フランスなんか行く気も、考えも毛頭なかったのだから先生の一言は強烈だったのだろう。
はてさて・・・・しかし芽が出たのだろうか?と訝しい気持ちは否めない。
実は今でも自分に声楽が向いているのか、いないのかは分からない。けれど、声楽を長く続けてきたおかげで音楽や言葉、芸術、あらゆることに対し目が開かれるようになったのは事実だ。一つのことを続けてやる・・という作業を通して、人は何かをつかむことが出来るのは間違いの無いことだ。これは確信に近い。
但し、これは本から得る知識のことではない。経験を通じてだけ得ることが出来る財産のことだ。
それは、別に芸術に限らない、商売でも、会社の仕事でもなんでもそうだ。
自分を振り返ってみたって、ろくに人前で喋れもしなかったのに、良くステージで何百人もの聴衆の前で歌ったり喋ったり出来るようになったものだ・・・という感慨を覚える。
話は変わるが、当然レッスンに行き出した頃は、声楽も右も左も分からなかったので、先生からは学ぶだけ学んだものだった。とにかく、自分が嫌なこと、嫌いなこと、不得意なことから積極的に実行していった。続く
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音大に入学・・・・10/22/99 22:15:06

無為の青春時代を送って何かが終われば自然に何かが始るだろう・・・などという甘い考えと、安楽な夢は見事に打ち砕かれた。高校からエスカレーターで入った大学を自主退学し、新たに音大受験を志してどうにか、声楽科に転がり込んだ。ところがここで何をするのか?でまた立ち止まった。押すにも引くにもここをまともに卒業できなかったら、フーテンの道をあゆむしかなかったので、大嫌いだったクラブに入ることになった。
その名も「フランス音楽研究会!」その後ぼくがマジメに声楽家になることを決意させてくれた恩師、村田健司先生と、このサークルで出会ったのである。
ところで、音大の声楽科である。私が入った某私立音大は当時とてものんびりとした気風であった。
何せ女子学生9割、残りが男である。その少ない男の中でも声楽科は際目付けに男が少なく、同学年は自分入れて4人であった。まして、声楽である!フランス音楽だの、芸術だの・・という言葉も雰囲気もかけらもなかったのには、少なからずショックを受けた。後に二期会のオペラスタジオで出会った、日本のエリート教育を受けた声楽家の卵達と比較すると、比較すること自体が悪いが月とスッポンの違いであった。
何が?意識の高さの違いである。今も同じだと思うが、例えプレイヤーにならず、先生の道を選ぶとしても意識は高く持たなければならない。勉強が嫌いだから音楽をやる・・ということが通用するほど甘くはないのである。世の中というものは・・
さて、そんなことも良く分かっていなかった甘ちゃんの私を見抜いて喝を入れて下さったのが、師匠の村田健司であった。ある日、ついにその師匠の家にレッスンに行くことになった・・・・続く
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何も出来ないので・・・・10/17/99 22:22:30

という具合で、高校3年間、ものの見事に遊び暮らしたおかげで、どうにかこうにかエスカレーター式に上の大学にお情け入学だったけど、本当は大学に行かずに少々好きだった写真をやろうと思っていた。ようするに普通の会社員になることははなから考えていなかった。それが目的で写真や芸術だのという考えは二の次だったから結局何も出来ない能無しである事を大学に行ってから気がついたのだった。
留年もしたけどそういうあせりよりも、何も能が無いというあせりが、独学でピアノを弾きだすようになった理由だ。20歳の頃の事である。
目茶苦茶な運指法だったから覚えなければ弾けなかったので、とにかく指で曲を覚えたのだった。
最初に覚えて、目茶苦茶な運指法で弾けるようになった曲が、バッハの「フランス組曲」の中のとある曲だった。それから面白くてインベンション・・・といってしまいにドビュッシーの前奏曲集の簡単な曲や子供の領分などであった。でも、目茶苦茶な運指法では細かいパッセージなど弾けるはずが無かった。そこで勢い、和音によるポリフォニックな進行の曲や一曲の中でもゆっくりとした和音進行の部分などを一生懸命弾くようになった。例えば、ドビュッシーの前奏曲集第一巻にある、「沈める寺」である。これは、ほとんど両手が和音を弾いていく曲だ。こんなことを一年間はやっていたから自然と初見、それもフラットやシャープ、ダブルフラットダブルシャープが一杯ある和音などを見てすぐ音にする事には長けてきたものだった。
この時期こそ、ぼくがフランス音楽を体に叩き込む時期だったのかもしれない・・・・続く
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寄り道・・・10/11/99 16:01:40

前述のように、漠然と作曲家に憧れたけれど、子供の頃から何一つお稽古事というものをしていなかった。もちろんピアノも弾かなかったので、漠然とするだけで何をどうするのかも分からず、そのうちに高校に入り、悪友との交友関係でソウルミュージックのとりこになっていった。当時ジェームス・ブラウンは一般の堅気な若者達の音楽ではなく、ディスコ通いに精を出す自称遊び人たちの共通テーマであった。
「セックスマシーン」や「ホットパンツ」という曲が流行っていた。それまで聞いた事の無い単調だけど体の芯を麻痺させる独特のサウンドに惹かれたのを今でも良く覚えている。音楽に合わせて体を動かしていると、体の成長に頭が追いつかない思春期の子供のエネルギーを発散する事が出来たのだろう。でもそれだけではなく、彼の音楽には、裏の世界でどん底の生活を送る者達をしばしの興奮で救う特別のオーラが漂っていたと思う。
当時の不良少年少女達が日常の空しさから逃れる唯一の社交場だった、ディスコの世界で人気を博したのは、単なる流行だけでは片づけられない何かを持っていた証拠だろう。
新宿には、ゲットーという小さなディスコがあり、六本木には、エンバシーというかなりマニアックなディスコもあった。その当時でもディスコの中ではジェームス・ブラウンは、特別だった。誰でもがリクエストするものではなかったような記憶がある。
そういえば、当時ディスコに遊びに行くときには、「コンポラ」というスーツを着たものだった!生地は玉虫が主流でジャケット襟は、カット無しの丸襟。ズボンは足が入るか!?と言うくらい裾の細いものだった。靴は細身のイタリアンの先の細い靴。当時の若者はIVYが主流だったが、それらのどれにも当てはまらない独特の雰囲気のスタイルだった。
"Escapeism"というジェームス・ブラウンが檻の中からこちらを向いている写真がジャケットデザインだったLPを手に入れた。ジェームスブラウンだけではなく、そのバックバンドであった、JB’sのサウンドも含めてますますニューヨークのハーレムの雰囲気に浸っていたものだった。残念な事にあのLPは友達にあげて、手元には残っていない・・・・続く
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作曲家を夢想したけれど・・・10/08/99 23:23:02

フランスのクラシック音楽をレコードで聞くようになったのは、中学生になってからですがどちらかというと、レコードマニアと云うよりオーディオマニア的な所が多分にあったと思います。当時は、ハムに夢中でしたから・・・。姉のピアノでドビュッシーの音楽的な美しさに目覚めましたが、今から考えると、良く理解できていなかったことが多かったと思います。その頃はじめてドビュッシーの歌曲作品、「ビリティスの歌」を聞いて感激したのは良く覚えています。しかし、良く聞いたのは管弦楽作品「牧神の午後への前奏曲」や「海」そしてラヴェルのいくつかのピアノ作品でした。
父の友人だった、作曲家の方から難しい現代音楽の評論の本などを借りて読んでいる内に、漠然と将来はドビュッシーのような作品、特に管弦楽作品が書けたら素晴らしいだろうな・・・などと夢想した事はありましたが・・・だって、作曲家になって自分の作品をオーケストラで聞けるなんて、どんなに贅沢な経験でしょう!
その頃です。やはり父に連れられて初めて第九交響曲を聞きに行ったのは・・終わった後にものすごい拍手と「ブラヴォー」の嵐!しかし、ひねくれていた、中学生は露骨に嫌悪感を感じたのでした。何しろ、最後の楽章に到達するまでの長さと退屈さに相当辟易していたものでしたから!加えてクラシック音楽愛好家に良くある、独特のスノッブ振りがそれに輪をかけていたのだと思います。
しかし、ある音楽がきっかけで中学を卒業する頃からクラシックの世界とは疎遠になって行きました。続く
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フランス歌曲をやるようになったのは・・・10/03/99 16:33:29

ドビュッシーの音楽から、と書きました。元々両親はクラシックが好きでしたが父は特にバッハを好んでいました。覚えているのはバッハのブランデンブルグ協奏曲の3番です。当時父が友人に作ってもらったアンプリファイア、それも真空管のものに、大きなパイオニア製のバススピーカーとオンキョーのスコーカーとツイーターのスピーカーセットでした。ターンテーブルはガラードというイギリスのものでした。スピーカーはほどなくしてやはり、イギリス製のグッドマンの30センチフルレンジのステレオで、アンプはラックスのSQ38Dというものでした。実は、いまだに我が家は父親譲りのこれらのセットで音楽を聴いています!
閑話休題。
ブランデンブルグのドイツ的なあつかましいものよりも、どことなく異国情緒あふれる、ペルシャの市場とかいう音楽に惹かれていた私は、小学校4年生くらいからビートルズに凝り出し、かつテレビ少年でもありましたから姉と一緒に邦楽系のグループサウンヅにも凝っていました。その姉もピアノを弾いておりましたがある日耳慣れない、しかしとてつもなく明るく美しい音楽を聴かせてくれました。それがドビュッシーの「ピアノのための2つのアラベスク」び一曲目でした。それから、父にドビュッシーの話を聞いて、ステレオセットを組んでくれた父の友人から、ギーゼキングの録音したドビュッシーのピアノ全集を聞きまくったのが、本格的にクラシックの音楽の世界に目覚めた始まりなのです。続く・・
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声楽というのは・・・・

要するに歌ですがここではクラシックの歌の話をします。クラシックの歌には簡単に言えばオペラの作品と単体で成立している歌曲と2種類あると思って下さい。私が歌っているのは後者の方です。特にフランスの作品を取り上げています。それは、フランスに留学してフランスの声楽家についたからです。もちろんそこでイタリアの歌曲作品も勉強しました。これはクラシックの歌の基礎はイタリア歌曲がうってつけであり、勉強の古典だからです。クラシックの歌には声域というものがあり、低い方からバス、バリトン、テノール、アルトメッゾソプラノ、ソプラノ・・・と別れています。アルトから先が女声です。
私はバリトンです。Barytonと書いてこれはイタリア語です。基本的にはオペラではこの音域に応じて、役柄のキャラクターが古典的に決まっています。歌舞伎でも悪役、善玉、ピエロ、ヒーローとヒロインが別れているように大体高い音域がヒーローだったりヒロインだったりすることが多いです。。
ところで、オペラは一人では絶対に出来ませんが、歌曲は基本的に一人ですから安上がりでかつ自分の才覚を試すにはうってつけです。私が歌曲をやっているのはそんな理由からです。もうひとつは人と何かを作るよりは一人でてめえ勝手にやるのが好きな性分。もっといえば、わがままともいいますが・・・(^^ゞ
そしてフランス歌曲ですが、もともとクラシックの音楽に入門したのがフランスの音楽からだからなのです。特にドビュッシーのピアノと管弦楽(オーケストラ)の作品からクラシックの世界に入ったのが、後年自分がフランス歌曲を専門に歌うようになった大きな理由です・・・・続く
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