声を当てるという比喩がボイトレ界隈で使われるようになったのは、フースラーの「歌うこと」が出版されてからではないだろうか?
彼が書いた「声を当てる」は、実際は自分の歌声の方向性を意識することである、私は解釈して実践している。
ドイツ語ではAnsatzとかEinsatzと言われるが、前者は声出すきっかけのことであったり、声質そのものを言うこともある。
後者は歌い出し、というような意味で似たような部分がある。
しかし、いずれも日本語の「当てる」とは意味が違うだろう。
日本語で「当てる」と書くと、いかにも声が自分のどこかの場所に文字通り当たるように思えてしまうが、これは間違いだ。
自分の肉体のどこかに物理的に当たるのではなく、意識された方向に声を「持っていく」という言葉の使いかたの方が正確と言えるだろう。
私なりにこの解釈にメリットを感じているのは、「持っていく」方が息が流れる、息を吐く、という歌うときに忘れてはならないことを声の響きと共存させられるからである。
つまり「当てる」という言葉のデメリットは、声に息というものが併存していることを忘れさせてしまうと感じられるのだ。
なぜこのような比喩が使われるか?というと、声に対して方向性を持たせることで、息と声帯の関係に変化が生じるからである。
例えば前歯に当てる、と言えば舌は下がり声帯は太く当たるだろうし、鼻根に当てると言えば舌は少し上がり鼻腔を意識した発声になりやすい。
頭頂部を狙えば声帯は閉じるよりも開きやすいし、鎖骨中央に当てれば声帯は最大限太く張った使いかたになりやすい。
このように当てるという言葉の意味は、声質に強く影響を与えるための息の使いかたになる。
このため、発声が良く解らない初心者にとっては大きな効果をもたらす要素になるだろう。
実際多くの声楽家の歌声が良く響き、声量が増すのはこのような発声法の具体的な方法論が発達したからではないだろうか?
しかし声楽といえども、本質的には、誰もが口にする素朴な歌そのものであることに違いはないはずである。
歌は言葉があって、言葉を音楽というフレームで伝えるための一つのコミュニケーションの道具である、という原点を忘れてはならないだろう。