ドビュッシーの歌曲中でも、名作の誉れ高い、ビリティスの3つの詩。
彼と同時代の詩人ピエール・ルイスの詩による歌曲です。
どの曲も、フランス語の美しさ、詩の内容、音楽、3つが完全にバランスされていて、
ドビュッシーが目指した歌曲作品の、一つの到達点ではないか?と思います。
いずれもドビュッシーは、メロディラインを歌い過ぎるように書かないことによって、フランス語が本来持つ音楽的美しさを表現しています。
言葉の持つ音楽性を、音楽が下支えするように書かれているのです。
いわば、音楽があるからこそ、その言語本来の音楽性が、レリーフのように浮き出すように出来ている。
ここにこそ、ドビュッシーの凄い天才がある、と思います。
この歌手の演奏に、久しぶりに感動しました。
古典的声楽評論家的!な見方をすれば、いわゆる「美声」ではないかもしれませんが、その分、演劇的な表現力と、声の技術をバランスさせられる才能を持っている方だと思います。
1曲目の牧神にパンフルートを教わる乙女の不安と期待のこもるうぶな心模様。
ここでは、声質をわざと浅めにして、若さや未熟さを表現しているのではないかと思います。
2曲目のエロティックな髪に対する嗜好。
ここでは、喉く開けた中低音の共鳴のある声で、髪の毛のエロティックな様相を表現しています。
3曲目の冬の氷の表現と寒さ、死に対する恐れ。
2人の対話を見事に使い分けています。強い地声と、きれいに切り替えた高音の対比。
動画を探すと、オペラアリアも結構歌っているようですが、どれも、大変興味深い演奏です。
いわゆる声だけで聞かせる歌ではなく、個性的な演劇的な表現を前に出すタイプでしょう。
強いていえば、フランス語がややアメリカ英語なまり的なところが、散見されます。
でも、発音は我々日本人の平均よりははるかに素晴らしい。
またある意味で日本人女性声楽家にとっては、大変参考になる歌手のタイプだと思われます。
というのも、最近の動画を見ていると、同胞の女性声楽家は歌詞の語感や表現と関係なく、表面的な声量を増すためなのか?いわゆるクヌーデルな声の方が多いと感じています。(昔からなのかもしれません)
これを良く解釈するならば、声量豊かな美声を作ることを何より大事にされているのでしょう。
しかし、そういう方向性が、フランス歌曲もドイツ歌曲もイタリア歌曲も、日本歌曲も、どれを歌っても同じような声楽演奏、にしか聞こえない演奏になってしまっていると思うのです。
それぞれの言語にはそれぞれの語感と声質の嗜好というものがあります。
それらを使い分けることが出来なければ、あるいはそういう意識と技術がなければ、
そうそう何語でもぺらぺら歌うことは出来ないのではないでしょうか?
声量がないと、大きなホールで通用しない・・・歌曲は小さなホールで歌ってくださいと言いたい。本来そういうものでしょう。
いや、ちょっと正論ばかりを述べてしまいました・・・
しかし、そろそろオリンピックの金賞狙いだけではなく、自分の個性を見極め、作品が本来持つ音楽表現に根差した、純粋な歌の演奏を目指してほしい、と心から願うからなのです。