前回書いたT君と通った坂の途中にこの古い洋館があります。
実はこの洋館は、当時同級生で密かに憧れていたSさんという女の子が住んでいた家でした。
Sさんはピアノが上手で、いつも長い髪の毛を綺麗に結ってリボンを付けた、いかにも当時のお嬢様という風情の女の子でした。
憧れのSさんの気を引きたい、と妄想していた少年が何を思ったか、ある日悪友を連れ立ちSさんの家の前に立っていました。
左手にハンディラジオ、右手にはおもちゃのトランシーバーを持って。
おもちゃのトランシーバーは27Mhz帯のはずでしたが、なぜか?FMで電波を受信できたのです。
これを利用して、隠れたところからトランシーバーで「Sさ~ん!」と呼んでみようと考えたのでした。
これは決して悪戯でも悪だくみでもなく、ただもう幼い恋心の為せるわざでした。
私の甘っちょろい空想では、ハンディラジオから聞こえる私の声にSさんが扉を開けると「あら~Y君?どこにいるの~?」と
甘い声が聞こえてくるはずでした・・
はず・・と書いたのは、そう!見事にこれが失敗に終わったからです。
私がトランシーバーで「Sさ~ん!Sさ~ん!」と叫んでいると、しばらくしてバタンと音がするや否や、Sさん窓から顔を出すなり、
普段の彼女からは想像も出来ない声で「止めてください!!!」と叫んだのでした。
その時はもう顔から火が出そうなくらい恥ずかしく、もう後ろも振り返らずに無我夢中で逃げました。
壁際の隠れたところでやっていましたので、姿は見られなかったのが不幸中の幸いでした。
翌日、学校で彼女を見かけると恥ずかしくて顔も上げられませんでした。
それ以後も、彼女とはなるべく顔を合わせることはしなかったように覚えています。
彼女に謝ることもできず、話すら出来ないまま小学校を卒業して地元の中学に上がり、いつしかそんな子供っぽい思い出も忘却の彼方に消えていました。
ところが巡り合わせというのは面白い。
私が結婚し、数年経った頃のことです。
いつもは渋谷駅から東横線で自宅のある駅まで帰るはずが、その日に限ってなぜか?暇に任せてバスに乗って帰ったのでした。
途中、三軒茶屋のバス停から乗ってきた女性を見て、あっと驚きました。
その女性は、すっかり大人の女性になっていたあのSさんだったのです。
大人になったとはいえ、横顔を見てすぐに彼女、と判りました。
しかし、その瞬間、彼女のほつれた長い髪と疲れたような容貌に少し違和感を覚えたのも事実だったのです。
初恋の思い出の中に封印されていた永遠の美少女Sさんが、すっかり生の大人の女として目の前にいるのを見て、違和感を覚えたのでしょう。
私が声をかけた瞬間、彼女も私のことを判ってくれました。
彼女はその後、音大のピアノ科を出たこと、駒沢に引っ越したこと、などなど尽きぬ話をしました。
あっという間に時は経ちました。
ちょっとの沈黙の間合いも惜しいくらいの貴重な時間でしたが「わたし、次のバス停で降りますから・・」と言う彼女の言葉に、ごくり、と唾を飲み込んで、思い切ってあのトランシーバー騒ぎのことを謝ろうかどうしようか?
迷ったまま、しばらく押し黙ってしまいました。
すると、下を向いて、かすかに笑っているように見えた彼女の口から意外な言葉が返ってきました。
「Y君でしょう?昔住んでいた家の外で大きな声で私のことを呼んだのは!」私は緊張で喉が渇いて「う、・・・」と、言葉にならない返事をしてしまいました。
「私はね、あのときは親や近所に恥ずかしくて怒ってしまったけど、本当は嬉しかったの」
「だって、あんなことする人他に誰もいなかったもの、良く考えたな~と思って、あとで思い出して一人で笑っちゃった!」
彼女が降りてから、直ぐに現実の彼女の顔を思い出そうとしましたが、どうしても思い出せず、あの12歳のSさんの面影だけが残っていました。
そんなことがあってから、更に20年以上も経ってしまいました。
彼女とは何もやりとりのないまま、あっという間に月日は経ち、私の頭は禿げて白髪。
彼女ももちろん結婚をして、もうそろそろ孫の声が聞こえる頃ではないでしょうか・・
私が先日散歩に行ってみたくて歩いたあの急坂は、実はこんなエピソードがあったのです。
今は誰が住んでいるのか判らないけれど、今も変わらない少女のままのSさんの面影があの一番てっぺんの窓から見えるような気がして、通り過ぎても何度も何度も振り返ってしまいました。
(この物語と写真の建物は実際は何の関係もありません)
思い出
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有さん浅田さんを思い起こすなんて、身に余る光栄。ありがとうございます。子供時代は小学校が楽しかったですね。高校も違う意味で楽しかったが、その代償は大きかったかも(笑)
中学がどうもぱっとしなかったな~。
最近、浅田次郎の『霞町物語』に、同じ麻布出身の人間という理由で目を通すことがあったのですが、その中に収められている小説みたいですね。
私が後から振り返られる思い出なんて、楽しい思い出は全くなくて、でも『スタンド・バイ・ミー』みたいな経験はしているはずなんですけどね~。