言葉が美しいいと言う時、単に形而下的な意味が出すイメージ世界が美しい、と言うことではなく、
語られている詩の言葉の音の形(子音と母音の組み合わせ)が、音楽(旋律)というフレームをまとうことで倍加された美しさを表現するのですよ、ということを
モラーヌ師は言いたかったのだ、と理解しています。
もちろん、言葉には意味があります。
意味のない言葉はありません。
しかし、意味だけが問題なのではなく母音の形と相まってその美しさを倍加させる、そこにこそ詩の美しさの一端があり、
その美しさを、音楽というフレームが支えることで、更に美は倍加した美しさを表現するのです。
これがモラーヌ師が言った「詩が花であり音楽は花瓶である」という意でしょう。
これは何もモラーヌの歌うフランス歌曲だけのことではなく、もちろん素晴らしいシューベルトやシューマンの歌曲もそうだし、
山田耕筰も中田喜直も、すべてそうでしょう。
いや、そういう演奏の可能性を内包しているわけでしょう。
せっかく内包しているのにフレームだけに拘った歌の世界を作ってしまうだけでは勿体ないではないか?
あるいは、もっと言葉の詩の美しさを表現する方にバランスした歌の作り上げ方があるのではないか?
ということを、モラーヌ師は身を以て表現されたのだと思うわけです。
それはバランスの問題でもありますから、好き嫌いはあるでしょう。
ただ好き嫌い以上に、言葉単体の美しさ、例えば日本料理の特質である、素材そのもの味を活かした調理の仕方にも似た、
詩の言葉の美しさをもっと前面に出した作曲法もあれば、歌唱法もあるのだということです。
ですから、素材よりも調理にこだわった料理方が好きな方にとっては、塩味や出汁の味わいが効いていない料理にも感じられ物足りないのかもしれません。
モラーヌの声に美声を感じない人がいるとしたら、そういうことではないか?と思います(笑)
さて素材の味は、実はなかなか判り難いのも事実です。
本当の旬の野菜の味を判るには、旬の良い素材を味わう機会と、少しばかり人生の年月がかかるかもしれません。
私とて何でも判っていたわけではありません。
増して20代後半の若僧に何が判っていたのか!
ただ、モラーヌ師が20代後半の若造を確かに感動させた要素は何か?と考えるに、歌詞の母音或いは子音が表現する形が、完璧に声楽の声として表現されていたことにあるのでしょう。
完璧に声楽の声として表現されていたという具体的な意味は、歌われるどの母音も完璧に喉(気道や喉頭の中)が良く開いた状態で発音発声されていたことと、
そのための呼吸が完璧にコントロールされていたこと、だと思います。
ここで書いている「開いている」の意味は、なかなか理解してもらいにくいことです。
あるいは声質とだけ考えれば、もっと閉じた狭い、響きの方が声楽的には美声と呼ばれる可能性もあったかもしれません。
しかしそこを敢えて声楽的美に耽溺しないで、言葉そのもの、ここでは彼の愛したフランス語の美しさにベクトルを振った結果の声が
彼の作り上げた声楽技法による声のスタイルなのではないか?
それこそが「開いた声」なのだ、と私は何も判らないでいながら、そう判断したのです。
それは今でも確信を持っています。
狭いのではなく、開いているのです。
モラーヌの芸術について
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