これはドビュッシー最晩年のピアノ曲集。「12の練習曲」から「6度のため」という曲です。
右手がほぼ全部6度の和音形でメロディーを奏でるように書かれています。
初めて聞いた時、6度の響きというものがかくも高貴な香りと味わいを持つものなのか!と感嘆したものです。
久しぶりに聞いてみて、なるほどこれはノクターンなのだ、と感じ、かつて撮影した丸子橋の夜景にかぶせてみました。
何と言うか・・・微熱のある底なしの孤独感と、そんな中で見る夢心地、何とは敢えて書きませんが、心地よさが感じられますね。不思議な魅力に満ちた曲です。
こういう、曖昧な味わいでありながら、どこかクールな快感をもたしてくれるところもフランスらしい味わいだと感じるのです。
ドビュッシーのピアノ曲から
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意識の流れとは良い言葉ですね。音楽も明らかに意識の流れがあると感じられるときがあります。時々思うのは、本を読んでいる時は快感なのに、読み終わって何年かすると、中身をさっぱり覚えていないのは、単に年とって記憶力が減じただけではなく、中身の意味よりも文章の流れが単発的に出すイメージを、脳味噌の中で再現している行為そのものが快感なのであって、ストーリーそのものは二義的なことなのではないか?ということです。音楽もそういう面があります。そう言う意味で、抽象的な、ストーリーも表面的なドラマもない、器楽曲が良いなと思うのです。
ご心配、ありがとうございます。今日、やっと以前の主治医に掛かり、薬を以前のものに戻してもらいました。以前の主治医は今の薬を見て「毒を盛られた感じ」と言っていました。以前の薬が効き始めるまで1週間前後、またドタバタするかもしれませんが、快方に向かっている途中と思ってください。失って初めて、普通の暮らしができるというのは、どれだけ有り難いかということに気が付きます。
在来の音楽(クラシックに限らずジャズなども含む)の根底にあるものは、やっと少し解ってきたかなという気がします。文学などは意識の流れ(ストリーム・オブ・コンシャスネス)だと言われますが、音楽にも、何か流れがあるということを感じられるようになったかなぁと思います。
しかし、丸子橋でも地上から富士山が望めますか。寓居も、越してきたときには富士山が見えたのですが、高層の建物が増えてきて、数年で見えなくなりました。しかも、東京タワーも上1/3くらいしか見えません。
一時はかなり大変そうでしたので、心配していました、外に出られるというのは進歩でしょう。適当にでも普通に飯が食えて寝られるって健康だけで、どれだけ有難いことが、最近ようやく判ってきた気がします・・・そうです。その通り月光や雨だれに通じるものあります。音楽には共通の何かしら芯になるものがありますね、同じ肉体を持った人間が作るものですから。そうですね、確かにこの丸子橋近辺はなかなか静かな良い所だと思っています。晴れて透明度の高い日には富士山もかなり近くに見えますよ。
おかげさまで、やっと、まだ普通にではないけれど外に出られるようになりました。何ヶ月も病院にいると外に出るのも怖くなるのでしょうか。まだ、日常生活を営むのに困難があります。明日は前の主治医に戻して初めての診察です。
うん、これは夜想曲ですね。なんとなく、高橋アキさんとかが弾いていそうな感じ。ショパン(雨だれ)やベートーベン(月光…は、もう少し派手で難易度が高いですが)に通ずるものがありません?
さて、背景の景色を見て思ったのですが、Monsieurの家は、すぐ県境なのですね。でも私が育った松戸より、静かな感じがします。
まぁ、東京といっても葛飾区あたりがゴミゴミしすぎなのかもしれませんが…。近所の駅ビル(町田あたりにあるような、駅の上が公団住宅になっている奴)に行ってみると、低い住宅ばかりで遠くに富士山が見えました。