シューベルトの曲に特有の愁いは、どこか病的な感じがあって、それは彼の命のはかなさを
こちらが知っているからそう思うのか?それとも彼が持っていたからそう表現されたのか?
この1楽章の冒頭部分を聴くたびに、ぼくは小さいころに病院に入院して死にそうになった時のことを思い出す。
あの消毒液臭い病室の白い壁や、窓から見える外の景色を思い浮かべてしまうのだ。
いまは亡き母の懸命の看病のおかげで九死に一生を得たわけだけど、苦しい呼吸で眠れない
で下を見ると、簡易ベッドで寝ている母の姿を見て、安心した記憶がよみがえってくる。
あの時、病気から回復したのが、ちょうど梅雨が明けた時期で、蝉が鳴き出したころだった。
食欲が戻り、喉の腫れも引いたせいで、病院で出た食事をちゃんと食べられたのが、嬉しかったのも記憶にある。
僕が食いしん坊なのは、恐らくあの記憶のせいだろうと今でも思っている。
食事がおいしいことのありがたさ、というのは、そういう意味で身にしみているのだ。
それはともかく。
ヴィオラという楽器は、チェロのように力強くないしヴァイオリンのような輝かしさもない、地味なところが愁いを込めた表現を可能にしているのだと思う。
オーケストラに管楽器の華々しさも魅力だけど、こういう愁いのある楽器の響きと、ピアノとの
組み合わせに、歌曲の魅力を感じるのは、私だけではないと思う。